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『ディエンビエンフーの戦い』 大国フランスの慢心が招いた大敗北

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 超大国アメリカの凋落の始まりとなったベトナム戦争。しかしもともとはベトナム仏印)の旧宗主国フランスの肩代わりとして当事者になったのが始まりでした。

 それではなぜフランスは、仏領インドシナから手を引いたのでしょうか?それには歴史に残る大敗北があったからでした。

 第2次大戦終結すると仏印は日本占領下を離れ再び旧宗主国フランスが進駐してきました。しかし、その地にはすでに共産勢力がホー・チ・ミンを指導者として深く根付いていました。

 彼らは植民地独立を目指し1946年から本格的な武力闘争を始めます。もちろん正面からぶつかったらフランス軍にかなわない彼らは、ゲリラ戦法によってフランス軍を苦しめました。

 業を煮やしたハノイフランス軍現地司令部は、起死回生の策を用いることによって状況の打開を図ります。

 1953年、ベトナム西北部ラオス国境に近いディエンビエンフー盆地にクリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐(のち准将に昇進)指揮下の8個大隊を基幹とする部隊が集結します。最終的には精鋭のフランス外人部隊を含む1万6千以上がこの地に投入されました。


 すなわちディエンビエンフーの飛行場を中心とした要塞を築き、これを囮にしてベトナム民主共和国軍(通称べトミン軍)の主力をおびき寄せこれを殲滅することで一気に決着をつけようとするものです。


 しかし、これには作戦を危ぶむ声も多かったのです。それは

〆?暫呂任△襯魯離いら300km離れた山間部の盆地であること。
⇒弸匹泙任楼路しかなく戦闘が激化すれば空中補給にしか頼れないこと。
D拘鉸帚鴇襪垢襪砲禄淑な防御施設を構築しなければいけないが、そのための資材が不足していること。
い發靴戰肇潺鷏海鵬佶いあった場合、狭い盆地に山地から砲撃を受け不利になること。


 これらの声は、小銃に毛の生えた程度の貧弱な装備しか持たないべトミン軍など恐るるに足らず、という司令部の現場を知らない参謀たちに握りつぶされました。危惧した意見具申をする現地部隊指揮官を臆病者呼ばわりする始末でした。


 現地軍指揮官のうちには、司令部の指示した陣地構築では不十分で敵が105mm以上の野砲で攻撃した場合、生き埋めになる可能性があると意見具申する者もいましたが、参謀は「べトミンは81mm以下の迫撃砲しか持たず、強度は十分である」と突っぱねました。


 しかし、べトミン軍は大口径の野砲を持っていたのです。中国大陸では共産党が国民党軍を駆逐しつつありました。共産軍は雲南経由で国民党軍から奪ったアメリカ製の105mm野砲をべトミン軍に供給していましたし、べトミン軍自体も戦後に日本陸軍から接収した分解可能な75mm山砲を持っていました。


 べトミン軍はヴォー・グエン・ザップ将軍を指揮官に3万人もの部隊を投入し、ひたひたと要塞の包囲を始めていました。最終的には10万人以上が終結したと思われます。グエン・ザップが一番留意したのは野砲陣地の秘匿でした。巧みに偽装し山の斜面に持ち込まれた野砲は、最終的にディエンビエンフー要塞の死命を制することとなるのです。

 フランス軍の目論見では乾季のうちに決着をつけるはずでしたが、べトミン軍は雨期を待っていました。

 1954年3月13日、山中に秘匿した野砲陣地からの砲撃を皮切りに以後56日にわたる『ディエンビエンフーの戦い』の幕が切って落とされました。


 中国共産党人海戦術に倣って遮二無二陣地突破を図るべトミン軍。装備で優越するフランス軍は空からの支援に援護され、陣地からの十字砲火で守ります。べトミン軍の夜襲も何回か企図されましたが、そのたびに多大な損害を出して敗退しました。

 時には数千の遺棄死体を残す敗北も喫します。しかし、倒しても倒しても次から次と湧いてくるべトミン軍に要塞守備隊は次第に疲労の色を濃くしていきました。

 戦いは長引き、恐れていた雨季がやってきます。戦場にはおびただしい数の彼我の死体が放置されたままでした。これが腐乱しものすごい臭気となって守備隊を襲い掛かります。連日の戦闘で疲労し睡眠も十分にとっていない守備隊にとって、これは拷問に近いものでした。

 あわてて戦闘の合間に埋葬を試みますが、土砂ぶりの雨に邪魔され、しかも汚水が自軍の塹壕に流れ込む始末でした。べトミン軍は山間部の秘匿野砲陣地から激しい砲撃を加え人海戦術で波状攻撃を仕掛けてきました。


 外郭の陣地からひとつ、またひとつと突破されべトミン軍は中心の司令部陣地に迫っていきます。フランス軍外人部隊や外人落下傘大隊を中心に激しく抵抗します。自動小銃や機関銃を乱射し、銃身が真っ赤に焼けると水筒の水をかけながら応戦しました。

 多勢に無勢、外人部隊などは投入された3個大隊のうち2個大隊がほぼ全滅するほどの大損害を受けます。ところが現地徴用のベトナム兵や戦意の低いアルジェリア兵は雪崩を打って敗走するか、われさきにべトミンに降伏していきました。


 そして破局はやってきます。5月4日、ついに司令部壕にべトミン軍兵士が突入しました。司令官のカストリ准将が捕虜になることで組織的抵抗は終結します。まだ陣地を死守していた外人部隊も、司令部に翻った白旗を見て抗戦をあきらめ投降しました。


 こうして世界有数の大国であるフランスは、貧弱な装備しか持たないと侮っていたべトミンに決定的敗北を被ります。戦死2200、捕虜1万以上。

 これを受けて、フランスはジュネーブの和平交渉でベトナム民主共和国の独立を承認、ベトナムの地から撤退しました。


 一方、超大国アメリカは東南アジアがドミノ式に共産化することを危惧、17度線以南に傀儡国家南ベトナムを樹立、フランスに代わって北ベトナムと対立を深めます。これがのちのベトナム戦争へと発展するのです。



 『ディエンビエンフーの戦い』は、あまりにも馬鹿げた作戦でした。慢心と敵への侮りが招いた敗北と言っても過言ではないでしょう。装備と物量の差を考えたらもっとましな作戦があったかもしれません。百歩譲って戦場をここに想定しても、もっと入念な準備をしておけば展開は違ったものになっていたはずです。


 日本のインパール作戦にも匹敵するフランスの大誤算、これが『ディエンビエンフーの戦い』でした。