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「文明のあけぼの」 - メソポタミア、諸族の興亡 -

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 三笠宮崇仁殿下の著書「文明のあけぼの」は、私鳳山の座右の書です。シュメール文明に始まり、バビロンの発展、エジプトとヒッタイトの興亡、アッシリアの統一まで、古代オリエントで繰り広げられた歴史を分かりやすく紹介してあり、学校の世界史で習うよりはるかに面白い良書です。この本を教科書にしても良いぐらいですが、なかなか難しいのかもしれません。

 さて、メソポタミア文明についてですが、ギリシャ語で「複数の川の間」という意味だそうです。チグリスとユーフラテスという大河に挟まれた沖積平野で、いまのイラクにあたります。
 地域的に、大きく南北に分かれます。北部はアッシリアと呼ばれる地方、南部はバビロニアと呼ばれます。さらに南部を細分化すると北側がアッカド、南をシュメールと呼びます。世界4代文明の一つ、メソポタミア文明はこのシュメールの地で発祥しました。
 もともと、農業は丘陵地帯で始まったと考えられています。高所から水を取り入れ、下に流しながら畑を潤していくという方法でした。農業生産力が上がってくると、人々は平野部に進出していきます。
 しかし、平野部を灌漑するには個人の力ではできません。集団で農業を行い治水していきました。こうなるとリーダーが必要になります。リーダーの指導の下で集団となって農業をおこなう、これが国のはじまりでした。
 
 農業を行う集団は、集落をつくり、外敵を防ぐために周りを城壁で囲みます。都市国家はこうして誕生しました。シュメールの地でもウル、ウルク(都市衛星じゃないよ!)、ラガシュなどの有名な都市国家はこのようにして生まれたと考えられます。
 ところで、シュメール人とはどのような人々だったのでしょう?実はよく分かっていません。BC9000年ころイラン高原から移動してきたらしいということは分かっていますが、それ以前どこにいたのか?民族系統は?など謎が多い人々です。BC6500年ころには、いくつかの集落が確認されています。BC2700年ころ都市国家が形成されました。BC2350年、アッカドサルゴン王が始めてメソポタミアを統一したといわれています。

 ところで、よくあんな乾燥した土地に、と思いませんか?実は、灌漑さえ完全ならあの土地は非常に生産力の高い農地になりうるそうなのです。日光と水という好条件に恵まれ、多数の人口を養える穀倉地帯だったそうです。残念ながら、現在は塩害が進み沿岸部は農業できなくなっているそうですが。

 BC1900年、セム族系のアムル人が、都市国家バビロンを建設しました。バビロニアメソポタミアの地を統一して、古バビロニア王国を築きます。ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王は、このときの王でした。古バビロニア王国は、外敵によって滅ぼされます。小アジアに興ったヒッタイトです。世界で初めて鉄器を使用したといわれるヒッタイトは、戦術の面でも戦車を主力とする強力な軍隊でした。歩兵中心のバビロニアが敵うはずはありません。バビロンはヒッタイト軍の攻撃で、陥落します。ヒッタイトは本国で混乱が起こったので、長期支配せず引き上げますが、メソポタミアの地はこのときから、世界史的な動乱に巻き込まれる事となりました。

 紀元前13世紀、最終的にアッシリアによってバビロンが占領されます。狭義の意味でのメソポタミア文明はここに滅びました。平野部に位置するバビロニアと違ってアッシリアは山がちで、農業生産力もそれほど高くありませんでした。しかも周囲をウラルトゥやキンメリア人などの強敵に囲まれ、一時は印欧語族のミタン二王国に占領され、属国となっていた時期もありました。必然的に人々は尚武の気質になります。しかも農業だけでは食べていけないので商業も発達しました。アッシリア商人といえば、小アジアにまで進出し活躍しました。
 長年の困難を乗り越えたアッシリアが立ち上がると、周りに敵はいませんでした。歩兵、騎兵、戦車、工兵までもったアッシリア軍は、かっての宗主国ミタンニを滅ぼし、遠くエジプトまで占領し史上初の世界帝国を築きました。

しかし、アッシリアは圧政をしいたので長く持ちませんでした。支配下のメディア、カルディア、リディア、エジプトにそむかれ滅亡します。
 そのなかで、バビロンを都としたカルディアは新バビロニアとも呼ばれ、いわゆる「バビロンの栄華」と呼ばれるほど繁栄します。ですが、「バビロンの栄華」とは、はかないことの例えです。
 まもなく新バビロニアは、イラン高原におこったアケメネス朝ペルシャに滅ぼされます。そして、それ以後この地から起こった国はありませんでした。
 メソポタミア文明の、完全な終焉です。