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世界史英雄列伝(20) アレクサンドロス大王 - ヘレニズムの時代 -

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アレクサンドロス BC356~BC323(在位BC336~BC323)

BC356年 マケドニア王フリッポス2世の子として生まれる。
BC338年 カイロネイアの戦いで、重装騎兵隊(ヘタイロイ)を指揮。勝因をつくる。
BC336年 フィリッポス2世暗殺さる。父の後を受け即位。
BC334年 ペルシア遠征開始。歩兵32000、騎兵6000。
    グラニコス川の戦いで、ペルシア軍に勝利。
BC333年 イッソスの戦いで、ペルシア王ダレイオス3世を破る。
BC332年 エジプト遠征、アレキサンドリアを建設。
BC331年 ガウガメラの戦いで、ペルシア主力軍を粉砕。ダレイオスはカスピ海東岸に逃亡。
    マケドニア軍、首都ペルセポリスに入城。
    ダレイオス、側近のベッソスに裏切られ暗殺さる。
    ベッソスを糾弾し、ダレイオスを丁重に葬る。
    (さらに東方に向けて遠征開始)
BC327年 インダス川を越えて、インド・パンシャブ地方に侵入。
BC326年 ヒュダスペス川の戦いで、現地の王ポロスを破る。
    マケドニア軍兵士、これ以上の東方遠征を拒否。軍を還す。
BC323年 アラビア遠征計画中に倒れる。死去。

 100個目の記事にして、英雄列伝20回目の節目にふさわしい人物として、有名なアレクサンドロス(アレキサンドロス・アレキサンダー)大王に登場してもらいます。
 ギリシャからインド西部にまでまたがる大帝国の創造者、有角王イスカンダルとしてムスリムの伝説にも登場する英雄です。
 
○エピソード1「愛馬ブケファロス」
 フリッポスに贈られたブケファロスは、暴れ馬で誰も乗り手がいませんでした。少年アレクサンドロスは、馬が自分の影におびえているだけだと悟り、太陽にむかって走らせおちつかせます。見事のりこなしたアレクサンドロスに父王は、この馬を与えます。名馬ブケファロスとの出会いでした。

○エピソード2「ゴルディオスの結び目」
 アレクサンドロスが、小アジア、リディアの首都、ゴルディオンのゼウス神殿を訪れた時の事。複雑に絡み合った結び目があり、「これを解いたものはアジアの支配者になれる」と書いてありました。
 アレクサンドロスは一刀の元に断ち切ります。 似たような話は、他の人物にもあります。英雄説話の一つの原型でしょう。

 さて、アレクサンドロスマケドニア軍の強さはどこにあったのでしょう?それはマケドニアン・ファランクスと呼ばれた重装歩兵ペゼタイロイの密集陣と、重装騎兵ヘタイロイの突撃にあったといわれています。詳しい事は以前書いたので(「古代西洋世界の陣形研究」参照)、簡単にふれますと、ペゼタイロイが戦列のバックボーンとして、敵主力を拘束。その間にヘタイロイが、敵側面か、弱点を見つけ突撃する。いわゆる、「ハンマーと金床」戦術です。これは、テーベの英雄エパミノンダスの「斜線陣」を改良し、汎用性を持たせた陣形でした。
 父、フィリッポス2世の時代に完成し、アレクサンドロスが応用しました。
 名将が指揮し最高度に機能した時、この「ハンマーと金床」戦術は、古代世界最強であったという史家もいるほどです。ただ、アレキサンドロス死後形骸化し、ペゼタイロイ自体が決戦兵種になるにおよんで、より機動性のあるローマの歩兵戦術に敗れ去るのですが。

 アレクサンドロスは、約4万の兵を率いて、父フィリッポスの悲願であったペルシア遠征に出発します。BC334年のことです。ところでペルシア軍で最強の部隊はなんだったのでしょうか?実は意外にもギリシャ人傭兵から成る重装歩兵密集陣ファランクスだったのです。ギリシャ人たちは、小アジア各地に移り住み、中にはペルシアの傭兵になるものも少なくありませんでした。
 突然ですが、「アナバシス」という古典をご存知でしょうか?哲学者クセノフォンが実際に従軍して記した実話なのですが、ペルシャ奥地で戦われた王位継承の争いに従軍したギリシャ人傭兵たちが、戦いに敗れ故国ギリシャまで敵中突破して逃げ帰るという内容です。ファランクスは戦場においては無敵の強さを誇っていた事が、アナバシスの記述の中にも現れています。

 小アジアには、有能なギリシャ傭兵隊長メムノンがいました。彼に全軍の指揮を任せていたら、ひょっとするとペルシアが勝っていたかもしれないのです。しかし、外国人ということで、ペルシア宮中は彼を信用しませんでした。メムノンが徹底的な焦土戦術を主張したことも、疎まれた原因でしたが。マケドニア軍を苦しめたメムノンが病死したとき、ペルシアの命運は尽きたのかもしれません。

 アレクサンドロスは、小アジアとオリエントの境、イッソスの地でアケメネス朝ペルシアの大王ダレイオス3世と対陣します。マケドニア軍が4万あまりなのに対して、60万の兵を集めたといわれています。しかし、実数はペルシアの国力を考えてもせいぜい10万というところでしょうか。戦いは、必勝パターンである「ハンマーと金床戦術」で、マケドニア軍の圧勝に終わりました。

 マケドニア軍は、ここで矛先を転じてエジプトに遠征します。後顧の憂いを断つためですが、エジプトではペルシアからの解放軍として歓迎されます。この地に有名なアレキサンドリア(実は各地に建設している)を築きます。
 そして、ついにBC331年、チグリス川上流ガウガメラの地で最終決戦が行われました。ここでも破れたダレイオスはカスピ海東岸に逃亡、側近のベッソスに裏切られ殺されてしまいます。恩賞をもとめてアレクサンドロスの元に現れたベッソスに、彼は怒りを爆発させ殺してしまいます。逆にダレイオスに同情を寄せ、丁重に葬ります。彼の美学だったのでしょう。
 そういえば、イッソスでダレイオスが置き去りにした彼の妻と娘に、アレキクサンドロスは指一本触れなかったばかりか、保護を加えたこともありました。

 アレクサンドロスは、さらに東へと駒を進めます。長期の遠征の末、インダス川を越え、インドに侵入しました。現地の王を破ってさらに東進しようとしたとき、兵士たちは命令を拒否します。これ以上の戦いは無理という主張です。こうして東征は終わりました。アレクサンドロスは、帝国の首都と定められたバビロンに帰還します。BC323年、さらなる未知の土地アラビアに遠征をする準備に追われているとき、アレクサンドロスは倒れ10日間も高熱になやまされます。側近が後継者を尋ねた時、有名な言葉をはきます。
 「最も強きものへ!」
 不世出の英雄は、わずか33歳にしてこの世を去りました。その後、彼の帝国は瓦解します。遺言通り将軍たちが最も強き者になるために争ったからです。その戦争のさなか彼の妻と子供は殺されてしまいました。生き残ったのはマケドニアのカッサンドロス、エジプトのプトレマイオス、シリアのセレウコスの三人でした。カッサンドロス朝だけは、同じマケドニアの将軍の子孫アンティゴノスに乗っ取られますが。これら三国は、ローマに滅ぼされるまで続きます。その時代はヘレニズム時代と呼ばれました。

 ヘレニズム時代とは何だったんでしょうか?ギリシャとオリエントの文化が融合した国際色豊かな時代でした。その影響は、ガンダーラ美術にも受け継がれます。遠くシルクロードを通じて日本にまでもたらされました。こうしてみると、歴史は繋がっているんだなあと実感できます。