◇唐二代太宗皇帝(李世民) 598年~649年(在位626年~649年)
598年 唐高祖李淵の次子として生まれる。
618年 隋の煬帝(ようだい)殺害さる。
李淵、「唐」を建国。
李世民、秦王の封じられ、尚書令となる。
「天策上将」の称号を受く。
624年 李世民の活躍で、天下統一なる。
626年 「玄武門の変」皇太子李建成、四男李元吉、世民を疎んで殺そうとするも反撃され逆に殺さる。
8月、高祖李淵、李世民に譲位。二代皇帝として即位。
627年 元号を「貞観」と改元。貞観の治の始まり。
629年 突厥(とっくつ)征伐。
630年 高昌国を討つ。
644年 高句麗遠征。失敗に終わる。
649年 死去。
中国史上最高の名君を挙げるとすれば、かならず出てくるのが唐の太宗皇帝、李世民です。父李淵が唐王朝を創始したのですが、対外戦争のほとんどすべての指揮をとったのが李世民でした。
李淵は隋王朝に仕える将軍でした。太原を守っていたのですが、皇帝煬帝のでたらめな政治に不満を持ち、長安を陥れ隋の皇族を擁立して自立します。618年、煬帝が江南で殺されると、皇族を廃し、自らが唐王朝を創始しました。
李世民が洛陽の王世充を攻めた時のことです。敵の援軍にきた華北の軍閥、竇建徳の大軍が攻め寄せます。李世民は固く守って、決して戦端を開こうとはしませんでした。長期の対陣で疲弊した竇建徳は軍をいったん引き上げさせようとします。その時を待っていた李世民は一気に攻勢をかけ、敵に襲い掛かりました。もともと引こうとしていた竇建徳の軍は、精神的にも持ちこたえる事ができません。こうして散々に敵を破りました。これを見ていた王世充もついに降伏します。
このようにほとんどすべて戦争は李世民によって指揮されました。そして、皇帝に即位するや、貞観の治と呼ばれる理想的な統治をしました。これほど完璧な経歴は例がないのですが、かえってそれが仇となります。
李世民、生涯最大の痛恨事、それが玄武門の変でした。李淵の長子で皇太子である李建成は、巨大な軍功をあげる弟に嫉妬していました。そして皇太子である自分の地位も危うくなると不安をかかえ、いつしか世民を除こうと考えはじめました。世民の弟李元吉も、優秀な兄のおかげで影が薄くなっていることに強い不満をもっていました。両者が結託するのは時間の問題でした。こうして世民を玄武門で待ち伏せ、殺害する計画が練り上げられます。
いっぽう、常勝将軍であった世民は、情報の重要性を認識していました。彼の情報網に、この暗殺計画が引っかかったのです。
世民は悩みました。しかし何もしなければ自分が殺されてしまいます。彼は逆に、二人を急襲し殺害しました。ただ、後味の悪い事件でした。暗殺計画は父李淵も黙認していたふしがあったのです。
事件は6月のことでした。そして8月には父李淵が退位します。居たたまれなくなったとも解釈できます。そして太宗皇帝李世民が誕生したのです。
「貞観の治」と世にいわれます。房玄齢、杜如晦、魏徴らの名臣を輩出し、中央官制として三省六部の整備、賦役・刑罰の軽減、均田制、租庸調制などが成されました。中国がもっとも良く治まった稀有の時代といってもいいでしょう。太宗李世民と名臣たちの政治問答集である「貞観政要」は、現在も帝王学の書として重んじられています。
その中で有名なエピソードを紹介します。あるとき太宗が「創業と守成はどちらが難しいだろうか?」と、下問します。
太宗と共に天下統一に苦労した房玄齢は「創業が難しいと考えます。」と進言します。いっぽう、現在、太宗と共に統治に腐心している魏徴は「守成こそ難しいものです。」と答えます。
太宗は「創業の困難はすでに過去の事。今は皆と守成の困難に対処したい」と述べたそうです。
思うに、太宗は常に玄武門の事件を心に刻んでいたのではないでしょうか?実の兄弟を手に掛けざるをえなかった無念、自責の念があったからこそ良い政治をしようと常に心がけていたのだと思います。
「貞観の治」は理想的政治として後世にまで語り継がれていきました。太宗皇帝李世民の政治姿勢、現在の政治家も是非見習ってもらいたいものです。