清盛もどちらかというと政略家の比重が重いため、義経か義仲のどちらかになるでしょう。作家の柘植久慶さんは、著書「源平合戦・戦場の教訓」のなかで義仲に軍配をあげています。義経がつねに少人数による奇襲を多用し、堂々たる野戦の経験がないのに対して、義仲は横田河原、般若野、倶利伽羅峠の三つの合戦で勝利し評価は高いそうです。
特に木曾冠者源義仲が、平家十万の大軍を破った倶利伽羅峠の合戦は、有名な「火牛戦法」のエピソードもありますが、その前にすでに勝敗は決していたと指摘しています。
般若野の前哨戦で敗れた平家軍は越中・加賀の国境倶利伽羅峠で木曾軍を食い止めようとします。しかし平家軍の総大将、平維盛は総勢十万を礪波山に七万、志雄山に三万と配置し山岳地帯の要害に陣を構えてしまいます。これが愚策中の愚策でした。
木曾軍は勢いに乗るとはいえ半分の五万しかいません。大軍の戦い方としては数で押す以外にありません。ところが山岳地帯で戦っては、その数の優位を生かせないのです。自分も防御に有利ですが、戦場の心理として、守りに入った軍は勢いがなくなります。
慧眼にも平家の弱点に気付いた義仲は、街道と山道をすべて押さえると逆に少数の兵で迂回して包囲する形をとりました。これで勝負あったと柘植さんは指摘するのです。「火牛戦法」の奇襲策はその総仕上げにしかすぎません。平家軍は奇襲を受け、群衆心理で谷底に向かって敗走し壊滅的打撃をうけます。
これで都までの道が開かれた木曾軍は、破竹の勢いで進撃しました。
では、平家軍はどのように戦ったら勝機があったでしょうか?柘植さんは倶利伽羅峠の前方にある小矢部川の線を防衛拠点にすべきだったと述べています。
そのうえで小矢部川の渡しを一時明け渡して、木曾軍に渡河を許し山裾に布陣した予備部隊で包囲攻撃すれば木曾軍を殲滅することも夢ではなかったそうです。確かに地図をみると納得できます。
この作戦こそが、木曾義仲が最も嫌った展開でした。しかし平家軍には、これを実行する能力を持った武将がいなかったのです。平家は清盛以外、まともな武将がいなかったのでしょう。滅亡は仕方のないことだったと思います。