「かってなかった、もっとも感銘的なできごとだ!」
ドン・キホーテで有名な作家、セルバンテスの言葉です。彼は24歳の時、レパントの海戦に参加し左腕を負傷します。
1571年10月7日、アドリア海沿岸レパントで起きたスペインを中心とする神聖同盟艦隊と、オスマントルコ帝国艦隊の間で戦われた海戦は、歴史の大きな分岐点となりました。
両軍の兵力は、ガレー船を中心に300隻程度。兵力も3万と互角でした。まず、戦いに到るまでを振り返っていきましょう。
第1次ウィーン包囲、プレヴェザの海戦の敗北、アルジェ遠征の失敗によって、スペインの地中海における威信は地に落ちていました。スペイン・ハプスブルグ朝カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はこの退勢を挽回できぬまま、世を去ります。
1556年、オーストリアを除く広大なハプスブルグ領を受け継いだ、息子フェリペ2世にとって、この状況は我慢なりませんでした。スペインは、新大陸を征服し、そこからあがる莫大な黄金と、当時欧州の商工業先進地帯であるネーデルランド(今のオランダ・ベルギー)からの巨額の税収もあり、その財政を潤していました。地中海では旗色が悪くとも、国家としてのスペインは日の出の勢いだったのです。
今考えると、フェリペ2世は、あふれるほどの富を国力の向上に使うべきでした。国土を開発し商工業の振興に投資すべきでした。しかし、彼はそれを戦争と奢侈に費やしました。現在、スペインはヨーロッパでも貧しい国に数えられます。
しかし、フェリペ2世が戦争をしてくれた事によってヨーロッパが興隆に向うのですから、スペイン以外の欧州諸国は彼に感謝すべきでしょう。
フェリペ2世は、ローマ教皇、ベネチア、ジェノバなどが対オスマントルコで結んだ神聖同盟の盟主でした。フェリペ2世の異母弟、オーストリア公ドン・ファンを総司令官とする神聖同盟艦隊はシチリア島メッシーナ港を出港します。目指すはアドリア海、レパント湾内にいたオスマントルコ艦隊の出口を封じる形で布陣します。
出口をふさがれた形のオスマン艦隊は、ここを突破しなければ脱出できません。両軍は300隻ずつ、ほぼ互角の戦力です。
両軍とも中央、右翼、左翼にわかれて布陣します。オスマントルコ海軍の総司令官はアリ・パシャ。連合軍艦隊は中央をドン・ファンが指揮し、左翼をベネチア艦隊の司令官バルバリゴ、右翼をスペイン傭兵艦隊のアンドレア・ドレアが指揮しました。オスマン側も中央アリ・パシャ、左翼ウルチ、右翼シロッコの布陣です。
戦いは苛烈を極め、両翼とも激戦でした。しかし、中央のローマ教皇艦隊の指揮官コロンナが敵旗艦を発見しそれに横付けします。そして3度にわたり斬り込みました。双方とも援軍を送りますが、コロンナはついに敵総司令官アリ・パシャを捕らえます。すぐさま斬首されました。総司令官をうしなったオスマン軍は戦意を喪失します。そして雪崩をうって壊走しますが、湾入り口を塞がれているためことごとく撃沈あるいは拿捕されます。無事脱出に成功したのはわずか10隻だったと伝えられています。
この戦いのあと、オスマン艦隊はすぐ再建されますが、問題は精神的なところでした。まず、ヨーロッパ諸侯がオスマントルコは無敵ではないと認識したこと、オスマン海軍の将兵の士気が落ち、以後積極的動きをしなくなったこと。この海戦の意義は、ヨーロッパが興隆に向かい、オスマントルコが衰退へ向かう分岐点になったという事でした。
フェリペ2世は、この後1580年ポルトガルを併合します。世界中に広大な植民地をもち、「太陽の沈まぬ帝国」と称えられました。自慢の海軍は無敵艦隊と恐れられスペインは世界最強国として君臨しました。しかし、その栄光もつかの間でした。1581年、オランダが独立、1588年には新興国イギリスとアルマダで戦い自慢の無敵艦隊は敗れてしまいます。それに追い討ちをかけるように1596年にはペストが流行、多くの死者をだします。1598年、フェリペ2世の死去と共にスペインの世紀も終わりをつげました。
大航海時代の始まりと共に栄光を築いたスペインに代わって、次の世紀はイギリスとオランダが主役として活躍するのです。