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ウィーン包囲 ヨーロッパ滅亡の危機 (後編)

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 1529年9月、花の都ウィーンはオスマントルコの十数万ともいわれる大軍に包囲されました。
皇帝カール5世が首都を脱出したため、サルム伯を司令官に歩兵2万、騎兵2千、市民義勇兵千、砲70門が全兵力でした。

 守備隊は頑強に抵抗します。攻めあぐねたオスマン軍は包囲を続けますが、そのうち冬がやってきました。南国育ちのトルコ兵は寒さに弱く、士気が低下します。攻囲2ヶ月、補給にも困難をきたすようになったオスマン軍はついに撤退します。ウィーン最大の危機は去りました。
 ただ、この戦いによりオスマントルコバルカン半島領有が確定します。カールはなんとか退勢を挽回しようと1535年北アフリカ、チェニスに遠征します。スペイン軍1万、ドイツ軍8千、イタリア軍8千、マルタ騎士団700という大規模な遠征軍を直率したカールは、ここでは一定の成果をあげます。トルコの総督を追い出しチェニスを占領しました。
 しかし、1541年ババリア海賊一掃を狙ったアルジェ遠征は惨憺たる失敗に終わりました。豪雨に会い、火薬が湿って使い物にならなくなったところを奇襲され、暴風雨で船の三分の一を失うという状況でした。2万4千とこのときも大規模の遠征軍を送っていましたが、スペインに帰り着いたとき兵8千、将校3百の損害をだし、スペインの地中海における威信は完全に失墜しました。
 その間にあたる1538年、スペイン・ベネチアローマ教皇連合軍がプレヴェザでオスマン海軍と戦って敗れるという事件もありました。地中海は完全にオスマントルコ制海権下に置かれたのです。

 第2次ウィーン包囲は1683年でした。これがオスマントルコ最後の攻勢です。そこに至る前、カール5世(スペインではカルロス1世)のあとを継いだ、息子フェリペ2世の時代、1571年、レパントの海戦でついにスペインを中心とする連合軍艦隊は、オスマン海軍を破り地中海の制海権を奪い返します。ヨーロッパ優位の時代はこのときから始まったとも言えます。
 再びウィーンを包囲したオスマン軍でしたが、ウィーンの町は最新式の築城術によって堅固な要塞に生まれ変わっていました。しかもヤン・ソビエツキのポーランド軍3万とロートリンゲン侯カール率いるドイツ軍4万が救援に来たため逆包囲の状況になりました。数の上ではまだオスマン軍が上回っていましたが、ウィーンの籠城軍を攻めあぐねていたところでしたので心理的に追い詰められた状況になりました。
 そんななか、ヤン・ソビエツキによって総攻撃命令が出されます。オスマン軍は、士気が低下していたこともあってこれを支えきれず、壊走してしまいます。

 これが転換点でした。以後、逆に神聖ローマ帝国オーストリアが、オスマン領に侵攻するようになります。1684年には、対トルコ神聖同盟が結ばれました。オーストリアポーランドベネチアがこれに参加します。
 1699年、カルロヴィッツ条約によって、ハンガリーの大部分とトランシルバニアオーストリア領になりました。
 
 それにしても、これは30年戦争グスタフ2世アドルフが活躍した時代の後、そしてプロイセンのフリードリヒ大王登場の直前の出来事でした。