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ウィーン包囲 ヨーロッパ滅亡の危機? (前編)

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 ヨーロッパはいつごろ強勢となったのでしょうか?一般には大航海時代と言われています。スペイン、ポルトガルレコンキスタに成功し、余勢を駆って海外に進出したときから優位が確定したというのですが、じつはその後、一度滅亡の危機を迎えるのです。
 それは、小アジアを中心に、バルカン半島北アフリカ、中東北部にわたる広大な領土を支配した巨人、オスマントルコ帝国によってでした。
 第1次1529年、第2次1683年と2回にわたりハプスブルグの都ウィーンは包囲されました。危険だったのは最初のほうでした。

 包囲したのは、オスマン朝第10代スルタン、スレイマン1世。大帝と呼ばれ、オスマントルコ帝国最盛期を築いたスルタンでした。対するウィーンの主人は神聖ローマ皇帝カール5世。ヨーロッパ第一の強国の皇帝も、もしかしたら殺されていたかも知れません。そうなれば世界の歴史は変わっていたでしょう。
 ウィーン包囲はどのような経緯でなされたのか、簡単に振り返っていきましょう。まず、発端はスペイン・ハプスブルグ家のカルロス1世が、バロワ朝フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝位を争ったのが始まりでした。
 スペイン王カルロスが神聖ローマ皇帝になると、フランスは周囲をハプスブルグ家に包囲されます。その最悪の事態を避けたかったフランソワでしたが、財閥フッガー家の支援を受けたカルロスが、1519年神聖ローマ皇帝に即位して、カール5世となります。
 フランソワは、唯一ハプスブルグ家の支配力が弱いイタリアに活路を見出すべく侵攻します。イタリアの地でドイツ軍とフランス軍は激しい戦いを繰り返します。しかし、次第に旗色の悪くなったフランスは、とんでもない策を思いつきます。敵の敵は味方という発想ですが、なんと異教徒のオスマントルコと同盟し、これを焚きつけてハンガリーオーストリアを狙わせたのです。
 実は、フランスという国、前科があります。モンゴルがヨーロッパを窺ったときも、それと結んで宿敵ドイツを倒そうとしたのです。

 スレイマン大帝は、フランスの願いを聞き入れ北上します。兵力は十数万、この時代の欧州諸侯で対抗できるものはいませんでした。最初に立ちふさがったのはハンガリーのラヨシュ2世。6万の兵力を集めて1526年モハッチ平原で戦いを挑みますが、鎧袖一触、大敗して戦死してしまいます。
 以後、ハンガリー王はハプスブルグ家が兼ねるようになりますが、大半のハンガリー領はオスマントルコに占領され、ハンガリーが国土を回復するのは150年後でした。

 1529年9月、大軍はウィーンの野を埋め尽くします。ちょうどこのころ、ドイツではルターの宗教改革の嵐が吹き荒れていました。フランスは影から新教諸侯を支援し、嫌がらせをします。カール5世最大の危機でした。国内の混乱と国外の脅威、カール5世はこれをどうやって収めたのでしょうか?

 (後編に続く)