◇ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)BC62年~AD14年
BC62年 騎士階級のガイウス・オクタウィアヌスとカエサルの姪アティアの子として生まれる。
BC45年 ガイウス・ユリウス・カエサルの養子になる。
BC44年 カエサル、暗殺される。遺言書により後継者に指名される。
BC43年 第2回三頭政治。アントニウス、レピドゥスと組む。
BC42年 トラキアのフィリッピで、養父カエサルの仇、ブルートゥス、カッシウスらを破る。
BC36年 レピドゥスを追い落とし、イタリア、アフリカの支配権確立。西方世界を統一。
東方を支配するアントニウスと対立。
BC32年 元老院で演説、アントニウスとクレオパトラを非難。エジプトに宣戦布告。
BC31年 アクティウムの海戦でアントニウス・エジプト連合軍を破る。
ローマ軍、エジプトに進軍。アントニウス、クレオパトラは自殺。
(プトレマイオス朝エジプト滅亡)
BC27年 オクタウィアヌス、共和政の復活を宣言。元老院、オクタウィアヌスにアウグストゥスの称号授与。
プリンケプス(市民の第一人者)として、事実上の帝政開始。
AD14年 死去。養子のティベリウスが後を継ぐ。
作家、塩野七生さんのライフワーク「ローマ人の物語」ですが、ローマの誕生から始まりポエニ戦争、内乱の一世紀、カエサルの登場、帝政開始から滅亡まで描く(まだ完結してませんが)大著です。
幾多の魅力ある人物が織り成すローマ史に、血湧き肉踊る思いで年一回配本されるのを楽しみにしている鳳山です。
カエサルについては,塩野さんがもっとも好きな人物だそうですから「ユリウス・カエサル ルビコン以前」と「ユリウス・カエサル ルビコン以後」と2冊にわたって伝記を書いておられるのですが、そのわりに事実上ローマ帝国を建国したアウグストゥスについては、あっさりしているような印象があります。それでもルビコン以後の最後三分の一と、次のパクス・ロマーナまるまる一冊を費やしてはいますが。
アウグストゥス、プリンケプス、インペラートルといくつもの名前、称号を持つオクタウィアヌスですが、偉大な人物であったことは間違いありません。
ただ、オクタウィアヌスは戦争があまり得意ではありませんでした。その部分は親友のアグリッパが補います。まず、彼が歴史の舞台に登場するのはカエサルの養子になった時でした。カエサルはこの少年の素質を見抜き養子にします。彼の本質は政治力でした。
オクタウィアヌスは早速試練にあいます。養父カエサルの暗殺でした。カエサルは遺言書によってオクタウィアヌスを後継者に指名していました。しかし、遺言書はあっても実力がなければ意味がありません。
事実、カエサルの腹心だったアントニウスは自分こそ後継者だと名乗り、同じくカエサルの部下だったレピドゥスと組んで、オクタウィアヌスと対立の姿勢を見せます。絶体絶命です。しかし当時17歳の少年は末恐ろしいことに元老院の重鎮、雄弁家のキケロを懐柔し、危険なアントニウスよりこの扱いやすい少年の方がカエサルの後継者としてふさわしいと思わせます。
元老院を味方につけたオクタウィアヌスに対して、立場が微妙になったアントニウスらは、逆にオクタウィアヌスを自陣営に引き入れる事によって事態を打開させようとします。それが第2回三頭政治です。
もうひとつ、オクタウィアヌスには強みがありました。カエサルとともに転戦した古参兵の支持を得
ていたのです。彼らにとってカエサルが遺言で後継者に指名した事実は大きかったのです。
まずはカエサルの仇、ブルートゥス、カッシウスら共和主義者を討つことが目的でした。オクタウィアヌスは,アントニウスの軍事力を利用して目的を達成します。
オクタウィアヌスの凄みは、ローマの実権が三者に握られ粛清の嵐のなかでアントニウスが、憎んでいたキケロを殺そうとした時、見殺しにしたことです。利用価値のあるときは利用し、なくなれば討ち捨てる、この若者の本質は、老練なキケロでさえ見抜けませんでした。
三者はそれぞれ支配地域を決めます。アントニウスは東方、レピドゥスはアフリカ、オクタウィアヌスはイタリアとガリアを。このうち最も豊かな東方を支配権に置いたアントニウスはエジプトの女王クレオパトラと組んでパルティア征服を望みます。一方、オクタウィアヌスはローマを含むイタリアを手に入れました。この分割はオクタウィアヌスにとっておおきな利益となりました。首都ローマを手にしたからです。首都の意味はたいへん大きいものでした。まず、オクタウィアヌスはレピドゥス追い落としに向います。こうして西方地域全体の支配権を得たオクタウィアヌスは元老院で演説しました。
それまで、クレオパトラの色香に迷いエジプトべったりのアントニウスはローマ市民の反感を買っていました。ローマ人でありながらエジプトの利益を第一に考えていた(ように印象づけられた)アントニウスに対するオクタウィアヌスの非難は、喝采をもって迎えられました。しかも巧妙な事に、オクタウィアヌスは直接アントニウスを敵にせず、エジプトに対して宣戦布告したのです。
当然、敵の矢面にたってくるのはアントニウスです。両軍はギリシャのアクティウムの海上で激突します。ローマ軍は陸軍をアグリッパが率い、オクタウィアヌスは海軍を指揮しました。実はアントニウスは陸上での決戦を主張していたのですが,クレオパトラの反対で海上決戦にしぶしぶ変更していました。
このとき、オクタウィアヌスはひどい船酔いで指揮を部下にまかせ、寝込んでいたそうです。戦いは一進一退でした。ところが、クレオパトラの乗る船が突如反転、離脱します。戦いに恐れを抱いたのでしょうか?そしてこれを見たアントニウスも戦場を離脱、クレオパトラのあとを追います。
陸上ではアグリッパの率いるローマ軍が押し気味とはいえ、海上は互角でした。それなのに敵軍は総大将自らが敵前逃亡です。大将に逃げられたエジプト軍は総崩れになります。武将としてのアントニウスの生命もここで終わりました。
オクタウィアヌスは戦勝の勢いを駆り、そのままエジプトに進軍します。最後は部下にまで逃げられたアントニウスは自殺、クレオパトラもあとを追います。こうしてプトレマイオス朝エジプトは滅亡しました。
BC27年、オクタウィアヌスは、自分に与えられていた非常時大権を元老院に返還します。そして共和政の復活を宣言します。これに感謝した元老院は、オクタウィアヌスに対してアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を与えます。
しかし、実態は共和政どころではなく、帝政でした。プリンケプス(市民の第一人者)と名乗ったオクタウィアヌス一人に権力が集中していたのです。インペラートル(軍の最高指揮者)の称号はエンペラー(皇帝)の語源になります。オクタウィアヌスの巧妙さは、元老院に気付かせる事なく着々と帝政を固めていったことです。
オクタウィアヌスは、こうして内乱の一世紀と呼ばれる時代に終止符を打ちました。「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)はこうして実現されたのです。
偉大な政治家アウグストゥス、彼が創始した帝国は東西に分裂しながらも中世、オスマントルコに滅ぼされるまでなんと1500年近くも続きました。
世界史上有数の英雄であったといっても過言ではありません。