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リシュリューとマザラン 『フランス絶対王政の確立』 後編

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 マザランはイタリア人でした。もともとローマ法王の一介の家臣にすぎませんでした。彼自身の語るところによると、フランスに行くことにしたのは一人の占星術師の予言によってでした。26、27歳の頃だったと思われます。

 マザランをはじめてみたリシュリューは、彼の外交手腕を高く評価します。そのままマザランリシュリューの側近に加わりました。1639年フランスに帰化、41年には枢機卿に任命されます。

 リシュリューの死後、ささえを失ったルイ13世は病の床につき1643年死去しました。跡を継いだルイ14世はわずか4歳8ヶ月の幼児でした。
 マザランは14世の母親で摂政太后アンヌ・ドートリッシュとともに、国難に当たります。まだ30年戦争は続いていました。

 戦争はもはや宗教戦争ではなく王家の利害をめぐる国際戦争と化していました。1644年以降ウェストファリアで終戦交渉が行われていましたが、講和を有利にするには戦場での決定的な勝利が必要でした。そのために戦闘は激化し戦費の負担はますます民衆に重くのしかかりました。

 戦費調達のための新税に対して、ついにパリの民衆が立ち上がります。反国王派の高等法院と結びついて反乱は大規模に発展しました。いわゆる『フロンドの乱』の始まりです。

 パリ高等法院は租税院・会計院・大法院の代表達を集め『連合裁定』という共同決議を結びます。政府に対する公然たる反旗でした。摂政太后マザランは、諸院連合の切り崩しを図るとともに、ウェストファリアでの30年戦争の講和に望みを託していました。

 30年戦争でのフランスの英雄、コンデ親王を秘かにパリに呼び戻したマザランは軍隊を使って一気に反マザラン派を一掃しようと企てました。
 しかしこの動きは民衆に察知され、暴動が起きます。政府はこれを収拾するため1948年10月22日「サン・ジェルマンの布告」によって高等法院の要求を全面的に認めました。

 しかしその2日後、念願のウェストファリア条約が締結されました。マザラン外交の勝利です。マザランは1649年1月5日国王と太后をともない秘かにパリを脱出し、サン・ジェルマンに向かいます。
 そして「24時間以内に高等法院はパリからモンタルジへ移ること」という命令をだします。同時にコンデ親王の軍隊はパリを包囲し、兵糧攻めにしました。
 パリ民衆は激昂しますが、高等法院は逆に戦意を失い屈服しました。ところが今度はコンデ親王が政権に野心を示します。マザランはこの動きをすばやく察知し親王を逮捕しました。しかしこのことで貴族達の反感を買い各地で反マザラン運動がおこります。
 マザランは北はノルマンディから東のブルゴーニュ、南のギエンヌと幼いルイ14世を連れて転々としますが、貴族連合から逃げ切れず、ついにドイツに亡命しました。
 
 しかし寄せ集めの貴族達に政権が維持できるはずもなく、民衆は反発を強めます。コンデ親王はついに政権を投げ出しました。1652年10月、ルイ14世はようやくパリに帰還します。マザランも亡命先から呼び戻されました。反乱はなおも地方で続いていました。もはや主力は貴族達から民衆に移っていました。復権したマザランは、反乱の最後の抵抗拠点ボルドーを水陸両面から攻め立て、5年の歳月を費やした反乱は1653年7月ようやく終結します。

 フロンドの乱は、長く暗い影響を与えました。出生率は低下し疫病が蔓延しました。これが後のフランス革命の底流になります。

 ところでマザランは、まだ仕事を終えていませんでした。反乱勢力が頼みとしたスペインとの戦争が終わっていなかったのです。マザラン清教徒革命によって政権の座についたイギリスのクロムウェルと同盟しスペインと戦います。英国海軍と陸軍に支援されたフランス軍は、1658年ダンケルクにおける『砂丘の戦い』でスペイン軍に決定的な勝利を収めました。
 力尽きたスペインは1659年「ピレネーの和約」を結びます。17世紀初頭から続いていたスペインとの長き戦いの勝利でした。これはウェストファリア条約とともにスペイン・オーストリア両ハプスブルグに対するブルボン朝フランスの完全な勝利を意味していました。

 1661年国王ルイ14世は成人していました。リシュリューの跡を継ぎ見事にフランスを絶対王政の強国に育て上げたマザランは、全能力を出しつくしたごとく、この年死去します。
 太陽王ルイ14世親政の始まりでした。同時にそれは宰相政治の終焉でもありました。