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リシュリューとマザラン 『フランス絶対王政の確立』 前編

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 世界史で有名なフランス・ブルボン王朝三代王ルイ14世の時代は、太陽王の時代と称されるフランスの絶頂期でした。ヨーロッパはフランスを中心に回り、ベルサイユ宮殿に代表される絢爛豪華なバロック文化が花開きました。

 細かく見ていけば、この時代すでに後のフランス革命に繋がるほころびが見え始めていたのですが、とにかくフランス史上でも最も輝いていた時代といっても良いでしょう。
 そのフランスの栄光を確立したのは、僧侶出身の二人の宰相によってでした。リシュリューマザラン、二人の治績を見ていくことにしましょう。

 有名なアレキサンドル・デュマの小説「三銃士」では、狡猾で国家乗っ取りをはかる野心家として描かれているリシュリューですが、実像はどうだったでしょうか?
 彼はもともと西部フランスのリュソンという町の司教でした。彼が政界進出のきっかけになったのは1614年、三部会に僧侶身分代表で出席してからでした。尊大で病気持ち、非常に激しい性格でしたが、権謀術数に長けた彼は時の国王ルイ13世の目にとまります。
 
 国王の信任を得、1622年には国王の推挙で枢機卿になります。国王側近として次第に権力を握り宰相としてフランスの外交、内政を一手に動かすようになりました。
 「私の目指すことは第一に国王の尊厳、第二に王国の盛大である」これはリシュリューの言葉です。彼はこの言葉通りフランスを中世以来の家政国家から、国王を中心とし官僚と常備軍にまもられた中央集権国家に作り変えることに生涯を捧げました。

 リシュリューはまず、ブルボン王朝を取り囲むハプスブルグ家の打破を目指しました。時あたかもドイツでは30年戦争が起こっていました。この戦争が宗教戦争の仮面をかぶったハプスブルグ家の覇権戦争だと喝破したリシュリューは、積極介入を主張します。
 ハプスブルグと戦うオランダやドイツ国内の反皇帝派諸侯に資金援助をしたのを皮切りに、1635年にはスペインに宣戦布告し軍事介入に踏み切りました。

 初めは苦戦したフランス軍でしたが、ルイ14世が誕生した1638年末ごろから形勢は有利になってきます。ただ長引く戦争によって国民は重税にあえぎました。「裸足のジャン」の反乱に代表される民衆反乱が続出しました。
 リシュリュー自身も、重税が民衆を苦しめ、ひいては国家財政を疲弊させるということは見抜いていました。しかし、ハプスブルグを打倒しフランス王国を拡大させるという執念で戦争を指導しました。
 1642年、強権によってリシュリューに押さえつけられていた貴族達が、陰謀を企みます。しかし密偵を張り巡らせていたリシュリューは直ちにこれを鎮圧、首謀者を処刑しました。
 南部ルーションの奪回戦を、国王ルイ13世とともに指導していたリシュリューは、病に倒れます。もともと病身だった彼は潰瘍におかされ、担架にのせられパリに帰還しました。そのまま1642年12月4日、リシュリューは生涯を閉じます。

 リシュリューは「国王の尊厳と国家の強大」を目指しましたが、生前には達成できませんでした。しかし、彼によってフランス絶対王政の基礎が築きあげられた事は間違いありません。

                            後編に続く