

関東における平将門の乱を平定した藤原秀郷と平貞盛はそれぞれ従四位下、従五位上に任ぜられ東国の受領、鎮守府将軍を歴任します。これによって彼らは軍事貴族として隠然たる実力を養いました。
関東に確固たる地盤を築いた彼らでしたが、1028年平氏一族の平忠常が乱を起こすと追討使に任ぜられた源頼信(義家の祖父)がこれを鎮圧し、これに従った彼らは次第に源氏の家人化します。関東に源氏が基盤を築いたのは、まさにこの時でした。
それまで関東の主人であった平氏は、一族から反逆者を出した手前源氏の台頭に従うしかありませんでした。では平氏はいつから伊勢に地盤を築いたのでしょうか?時代を数十年遡ります。
貞盛の四男に平維衡という人物がいました。ただ系図では四男となっていますが彼の活躍した年代と父とされる貞盛の年代が50年ほど隔たっているので、貞盛の子というのは疑問が残ります。晩年の子だったのか、孫か不明ですが、一応系図通り四男として話を進めます。
貞盛の嫡流は長男惟将(北条氏の祖)が継ぎますが、維衡はよほど才覚があったのか諸国の受領を歴任します。998年下野守になったのを手始めに1013年ころには上野介、1021年常陸介に次々に就任しました。貞盛の他の子供たちの子孫が振るわぬ中、維衡は次第に平氏の主流となっていきます。
そんな中1006年に維衡は伊勢守に就任しています。古くから開け豊かな伊勢国に目を付けた維衡はこの地に所領を開発し根拠地を築きました。これが伊勢平氏の発祥だといわれといます。
政治力に長けた維衡は、時の権力者藤原道長に取り入り伊勢の地に強固な地盤を築き上げました。貞盛の他の子孫が次第に源氏の家人化していったのとは逆に、伊勢平氏は繁栄していきました。
伊勢に土着した平氏の中から、維衡四世の孫、正盛が登場します。この頃には伊勢・伊賀にまたがった所領の経営で平氏はかなり富裕になっていました。1097年には伊賀国鞆田村、山田村の田畑あわせて二十町余りを六条院に寄進したほどです。
武勇一辺倒の源氏と違い平氏は歴代当主が政治力に長けていました。六条院は時の権力者白河上皇と繋がりを持っていました。所領を寄進することで上皇とつながりを持った正盛は院のお気に入りとなります。どちらかというと摂関家と繋がりがあった源氏は上皇にとって煙たい存在でした。
源氏に代わる武力を欲していた上皇と利害が一致したのです。
正盛台頭のきっかけとなったのは源義親追討でした。義家の次男で早世した長男に代わって嫡流を継いだ義親は、粗暴の振る舞い多く対馬守在任中に人民を殺害したり官物を横領したため大宰府より朝廷に告発されました。隠岐国流罪に決まった義親でしたが、出雲国でふたたび乱暴を働き隣国因幡守であった正盛に1108年、義親追討令が下ります。
正盛はこれを一ヶ月で平定しました。義親の首をとり都に凱旋した正盛は功により但馬守に転出します。さらに子の盛康は右衛門尉、盛長は左兵衛尉に任ぜられました。
後三年の役で、私闘とされなんら恩賞の沙汰がなかった源義家とは大違いでした。平氏は院政の武力として源氏と並ぶ存在に成長していきます。その子忠盛、孫清盛の時代に源氏を圧倒して平氏は政権を担うほどになりました。
一方、源氏はその政治力のなさから次第に追い詰められ保元、平治の乱でほぼ滅亡する事となりました。しかしただ唯一生き残った、源頼朝は皮肉にも歴代平氏当主に勝るとも劣らない政治力の持ち主でした。
その頼朝によって平氏は滅ぼされることとなります。