◇曹操(字は孟徳)155年~220年
155年 太尉曹嵩の子として生まれる。
178年~184年 黄巾の乱 曹操は騎都尉として鎮圧にあたる。
189年 董卓暗殺を謀るも失敗、逃亡。
190年 反董卓連合軍を結成(盟主は袁紹)
董卓を洛陽から追うも、連合軍は解体。
191年 東郡太守に任ぜらる。
192年 青州(現山東半島)の黄巾賊を討伐、30万の捕虜を得る。(青州兵)
195年 兗(えん)州牧に任ぜらる。
献帝を、許昌に迎える。
196年 大将軍武平侯になる。
198年 呂布を滅ぼす。
200年 官渡の戦いで袁紹を破る。
207年 烏丸討伐、袁一門をことごとく滅ぼす。
208年 赤壁の戦い。劉備・孫権連合軍に敗れる。
211年 渭水の戦いで西涼の馬超を破る。
漢中の張魯を討つ。
213年 魏公。
216年 魏王。
220年 死去。
息子曹丕が献帝より禅譲を受け魏王朝を建国。太祖武帝と追号される。
後漢末、許子将という有名な人相観がおりました。月の初めに人物を評価するので「月旦評」の名で有名でした。ある日、不敵な面構えの若者が許子将のもとを訪れます、自分を観て欲しいと。
じっとその若者を見つめた許子将は、はき捨てるように「君は治世においては能臣だが、乱世では奸雄となろう。」
若者は、にやりと笑い「乱世の奸雄、それも良い。」と言ったと伝えられます。この若者こそ、後に三国志で活躍する主人公の一人、曹操孟徳その人でした。
曹操は太尉曹嵩の息子といわれてますが、実はこの曹嵩、養子です。養父は曹騰、宦官でした。この時代では珍しい清廉な宦官でしたが、曹騰の孫ということで、曹操は劣等感を生涯持ち続けます。
三国志を読まれた方はご存知ですが、十常侍という宦官達が悪政の限りを尽くし漢王朝を滅亡に追い込みます。イメージ的に宦官の孫ということは、それだけで色眼鏡でみられる存在でした。しかも父曹嵩の官位もお金で買ったもの(売官)でしたからなおさらです。
若いころ、名門(四世三公=4代にわたり朝廷の大臣になった家柄)の袁紹と遊びますが、曹操は袁紹を友達とは思っていなかったかもしれません。
袁紹が名門の威光で、順調に河北に大勢力を築き上げている間、曹操は悪戦苦闘しながら勢力を広げます。家柄のない曹操の力は、人材でした。従兄弟の夏口淵、夏口惇。一族の曹仁、曹洪。許楮、典韋などの武将。荀彧、程昱、荀攸、郭嘉、劉曄、董昭などの謀臣。彼らの力によって最終的には華北を平定するに至りました。
また、衰えたとはいえ、漢朝の威光を利用したのも成功でした。曹操は自分の本拠地、許昌に献帝をむかえ、自分は丞相となることで諸国の群雄のなかで一頭地を抜く存在になったのです。
丞相閣下の威光は絶大でした。曹操に逆らったものは朝敵となり、曹操の軍は官軍としてこれを討つことができます。討伐されのは淮南の偽帝袁術(袁紹の弟)、徐州の呂布(董卓を殺すも追われて徐州にきていた。)、関中の李傕(かく)、郭汜(し)らでした。そして華北平定の総仕上げとして、ついに袁紹とぶつかります。官渡の戦いについては以前ふれたのでくわしくは書きませんが、両軍の兵力差に関しては、最近読んだ正史三国志の武帝紀でも疑問を投げかけてあったのを発見して、わが意を得たりと納得しました。やはり、両軍の兵力差は実際はそれほどではなかったのかもしれません。
古の兵法書孫子をまとめ、現在あるような形にしたのも曹操です。(魏武註孫子)生涯勝率8割5分といわれるほど戦上手の曹操ですから、自分の体験もふまえ編纂しました。余談ですが物語中盤で蜀の張松が嘲笑した孟徳新書とは、この魏武註孫子のことではないかと思います。張松は笑いましたが、現在にまで残っているのでやはり偉大な書物であることは間違いありません。
官渡の役のあと、数年で北方の袁一門を滅ぼし華北を平定、残るは南方でした。呉の孫権、そして荊州に寄食する劉備、この二人だけが厄介な存在でした。
そして、劉備は有名な「三顧の礼」で、大軍師諸葛亮を迎えていました。諸葛亮は恩讐を越えて劉・呉同盟を結ばせ、曹操の苦手な水上戦にもって行きます。これが世に言う赤壁の戦いです。陸上では大軍である曹操の軍(83万と号していました。)も、長江の水の上では手も足もでません。ましてや周瑜率いる精強な呉水軍3万が相手です。三国志演義では諸葛亮が遁甲の秘法をつかって吹くはずのない東南の風を起こし火攻めをして曹操の水軍を焼き払った事になってますが、北方育ちの曹操軍は、湿気の多い南方で疫病にかかりまともに戦争できる状態ではなかったとも言います。こちらが真相だとするとなんだか夢のない話になるので深く詮索するのはやめましょう。
ともかく、この戦いで曹操の天下統一の夢は破れました。しかし中国の3分の2を支配下においている事には変わりません。後、劉備が四川にはいって蜀を建国、三国時代に入りますが、蜀と呉は連合しないと魏にあたることはできませんでした。
こうなると、献帝を廃して自分が王朝を建てても不思議ではありません。しかし曹操はそうしませんでした。自分を周の文王になぞらえていたのです。文王は実力天下一でありながら商(殷)の紂王に仕えました。曹操の息子曹丕によって魏は建国されます。魏の太祖武帝、それが曹操のおくり名です。
「矛をよこたえて詩を賦す」と称えられた詩人でもあった曹操。短歌行は有名です。三国志を編纂した陳寿は、曹操を評して「非常の人、超世の傑」と言っています。やはり世界史を代表する英雄です。