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宦官将軍ナルセスと「タギネーの会戦」

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 歴史上、宦官といえば三国志に代表されるごとく良いイメージはありません。しかし何人かは、偉業を成し遂げた宦官もいます。明の永楽帝の命令で、遠く東アフリカまで大艦隊を率い遠征した鄭和もそうですし、これから紹介するナルセスもその代表でしょう。

 東ローマ帝国中興の英主、ユスティ二アヌス大帝はかってのローマ帝国領の回復をもくろんでいました。名将ベリサリウスを遣わし北アフリカ、イタリアの地に遠征軍を派遣したのもそのためです。
 当時、イタリア半島西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート族が治めていました。535年、海路からイタリア半島に上陸したベリサリウスは、537年ローマを奪回し539年には東ゴート族の拠点ラヴェンナを包囲します。1年間の攻城戦のすえ、これを下すとベリサリウスは一時首都、コンスタンティノポリスに帰還しました。

 しかし、王の一族であったトティラが指導者の地位につくと東ゴート族は盛り返します。王位についたトティラは542年には再びローマを占領しました。
 東ローマ宮廷では、有能なベリサリウスに嫉妬する廷臣たちが大帝に讒言し、ユスティ二アヌス自身もベリサリウスに猜疑の目を向けていました。

 552年、彼に代わって宦官ナルセスが東ローマ帝国軍の司令官に任命されます。兵力は約3万。実直な性格で、軍事経験などほとんどなかった彼が抜擢されたのは謎ですが、結果的には大成功でした。
 ナルセスは陸路を取り北イタリアから半島に侵入しました。これを迎え撃つトティラは軍を率いてローマを発ちます。
 両軍は、フラミニア街道沿いのブスタ・ガロルム平原、タギネーの地で激突しました。552年のことです。
 東ゴート軍の布陣はトティラ自身が率いる2千(8千という説もあり)の騎兵を先陣、歩兵部隊8千を後陣に配しました。一方東ローマ軍は中央に歩兵、両翼に騎兵、その前方に弓兵部隊が4千ずつ。さらに左翼前方に千五百の騎兵を置きました。

 戦いはトティラの騎兵部隊が何度も強襲を試みますが、両翼から包み込むように配された弓兵の斉射を受け、そのたびに撃退されました。しゃにむに突破をはかるトティラが突撃しようとして歩兵部隊との間に致命的な間隙をつくりました。しかし後方の歩兵は、応援に行こうとしても右翼の敵騎兵に牽制され身動きがとれません。
 この時をまっていたナルセスは、包み込むようにトティラの騎兵部隊に攻撃をかけます。四方に敵を受けた東ゴート騎兵は壊滅します。そしてトティラ自身も戦死しました。残った歩兵も各個撃破されます。大勝利でした。

 553年には、ナルセスに対抗するためにトティラが領土を割譲して引き入れたフランク族8万の大軍も、弓兵を有効に活用したナルセスの戦術の前にカシリナムの戦いで大敗します。
 555年には東ゴート最後の王テヤをサレルノ近辺の山中で戦死させ、東ゴート最後の拠点、南イタリアのコムプサの町を降し、ナルセスはイタリア半島完全回復という偉業を成し遂げます。

 まさに名将といってよい宦官でした。