◇グスタフ2世アドルフ 1594年~1632年(在位1611年~1632年)
1594年 スウェーデン王カール9世の王子として生まれる。
1611年 即位
当時、バルト海制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと戦争中。
1613年 ロシア皇帝位を主張しない代わりにカレリア地峡を獲得。
以後はポーランド戦に全力をつくす。
フランスの仲介で講和。バルト海の制海権を獲得。
1630年 ドイツ30年戦争に新教側で介入。1万5千の兵を率いポンメルンに上陸。
1631年 ブライテンフェルトの戦い。ティリー率いる皇帝軍を撃破。
1632年 ミュンヘン占領。
リィッツェンの戦い。皇帝軍ヴァレンシュタインを破るも、自らは戦死。
現在、ビゲン・グリペンなどのジェット戦闘機とSタンクのようなユニークな戦車を持ち、専守防衛の中立国で知られるスウェーデンですが、かってはバルト海周辺に、フィンランドを含む広大な領土を持つヨーロッパでも有力な軍事強国(人口が少ないので大国とまでは言えない)であったことはあまり知られていません。
その絶頂期を築いたのが、本編の主人公グスタフ2世アドルフです。スウェーデンの覇権はカール12世が、ロシアのピョートル大帝に北方戦争で敗れるまで続きます。
17歳で即位したアドルフでしたが、当時スウェーデンはバルト海の覇権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークなどと戦争の真っ只中のいました。
ロシアの皇帝位を主張しない代わりに(どういう経緯かは不明)、ロシアからカレリア地峡を獲得します。いまのフィンランド南部からペテルブルグ(レニングラードの方がWW2フリークとしてはしっくりきますが)の西方地域です。
ポーランドとの戦争では、スウェーデンと友好関係を築きたかったフランスが仲介して有利な講和を結べます。これでダンチヒなどバルト海沿岸地方を得て一大バルト海王国が出現しました。
グスタフ・アドルフの名を知らしめるのは、なんと言っても30年戦争への介入でしょう。新教側諸侯を援けるという名目でしたが、その真意はドイツ北方にあるスウェーデン領の安定化を図ることが目的でした。
グスタフ・アドルフは1万5千の兵を率い北ドイツに上陸します。数は少なくとも精強な軍隊でした。火力と機動力を重視し、火砲の軽量化を図りました。騎兵・歩兵・砲兵のいわゆる三兵戦術、兵站部門の独立など近代に通じる編成です。
1631年には、ティリー伯率いる皇帝軍をブライテンフェルトで撃破しその真価を発揮します。北ドイツを席巻する勢いのスウェーデン軍に対し、神聖ローマ皇帝はあわてて罷免していた傭兵隊長ヴァレンシュタインを起用しました。
このヴァレンシュタインという人物、もともとボヘミアの新教貴族の生まれでしたが、のちカトリックに改宗、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世を支持して新教諸侯を破り大功をあげます。そして新教諸侯の領地を没収して巨富を得、5万の傭兵隊を組織するようになります。30年戦争では、デンマーク王クリスチャン4世の侵入を撃退しますが、彼の力が強大になるのを旧教諸侯に恐れられ罷免されていました。
背に腹はかえられません。実力で10万の傭兵を集められるヴァレンシュタインしかこの危機を打破できる人物はいませんでした。
1632年、スウェーデン軍はミュンヘンまで占領します。ヴァレンシュタインはリッツェンの地でこれを迎え撃ちます。激戦でした。しかし精強なスウェーデン軍は、大軍とはいえ寄せ集めの皇帝軍をついに破ります。ところが、信じられない悲劇がおこりました。国王グスタフ・アドルフが霧で視界を失いさまよっているところを砲撃にあい戦死してしまったのです。
皇帝軍の危機は去りました。しかし、ヴァレンシュタイン自身の存在価値もこれでなくなりました。単独で新教側と講和を図っていたとも、選帝候位を望んだとも、ボヘミア王位(選帝候位もついてくる)を狙ったともいわれていますが、皇帝に疎まれ1634年再度罷免されます。そして何者かにより暗殺されました。
国王をうしなったスウェーデン軍は、怒り狂いドイツ各地で略奪暴行の限りをつくしドイツの荒廃を加速させる悲劇をつくりました。
グスタフ・アドルフは戦争ばかりしている印象ですが、国内の産業育成にも力を尽くしました。司法行政制度を整え、商工業を奨励、大製鉄所を建設し武器工場を近代化しました。おかげで武器を輸出するほどになったと言います。
北方に出現した獅子王、グスタフ2世アドルフ。スウェーデンが最も世界史上輝いていた時代の王です。