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シャカ大王とズールー王国

 おそらく誰も興味がないと思いますが、最近アフリカ史の知識が無さすぎることを痛感しました。今まで書いた記事でもローマ帝国関連とイスラム教関係で北アフリカ、エジプトは古代史中心、コンゴはンジンカ女王の話をちょっと、エチオピアアクスム王国、迷宮都市フェズとモロッコ史、黄金都市トンブクトゥなど断片的にしか紹介していなかったと思います。

 今回紹介するシャカ・ズールーとズールー王国も名前だけは知っていましたがどのような歴史をたどったのか知らなかったので調べてみました。と言ってもネットで調べただけの薄い知識なのでご容赦ください。その前に誰も読まないとは思いますが(苦笑)。

 シャカ・ズールー(1787年1828年)は現在の南アフリカ東部にあったズールー族の族長です。当時のズールー族は東部沿岸部のごく小さな領土しか持たない弱小部族でした。シャカは前族長センザンガコナの第一子ですが、その母ナンディは彼の第三夫人でした。ランゲニ族出身で、センザンガコナの母もランゲニ族だったことから、第一夫人が警戒し夫に讒言します。

 シャカは母と共にズールー族を追放され近隣のムテトワ王国ディンギスワヨ王に庇護されました。その後センザンガコナが亡くなると、シャカはディンギスワヨの後押しでズールー族の族長に就任します。当時のムテトワ王国は周辺部族の宗主国的立場にあったようです。

 当然、シャカもムテトワ王国の影響下に置かれます。ところが1817年ンドワンドウェ族との戦いでディンギスワヨ王が戦死してしまいました。すると連合部族の指導権はシャカに移ります。シャカは恩人ディンギスワヨ王の仇を討つと称しンドワンドウェ族への復讐戦を開始したばかりか、自分に敵対していたシャカ族内部の反対派の粛清も開始しました。串刺しの刑などの残虐な方法で処刑するなど恐怖政治を行い部族を統制したのです。

 シャカは軍制改革を行い、それまでの投槍中心から短槍に変え突く戦法を採用しました。一種の連隊制度も導入し組織的に動く軍隊を編成したのです。そればかりか時は帝国主義真っただ中。欧米商人からライフル銃を購入し小規模ながらライフル歩兵隊も組織します。

 シャカはまた、牛の角戦術も採用しました。これは本隊である胸、その背後で後詰する腰が敵主力を拘束する間に、両翼の角が包囲し殲滅する戦法で、マケドニアのハンマーと金床戦術はじめ欧米諸国が基本戦術としたものと同様でした。これがシャカのオリジナルか、それとも欧米人から聞いたのかは知りませんが、牛の角戦術は猛威を振るい現在の南アフリカ東海岸のほとんどを占める広大な領土を獲得しました。

 18世紀から19世紀初頭にかけて彗星のごとく現れ広大な領土を獲得したズールー族でしたが、シャカは恐怖政治を敷いたため人心を得られるまでには至っていなかったそうです。特に1827年母ナンディ死去の際、殉死と称して7000人を処刑したことはズールー国民の猛反発を受けました。

 国民ばかりでなく王族の憎しみも買い、翌1828年北方遠征の途中、王太子で異母弟のディンガネ・カセンザンガコナらに暗殺されてしまいます。享年41歳。

 シャカ王の死後もズールー王国は南アフリカで大きな領土を保ち、南アフリカに植民したボーア人(オランダ移民が土着化した子孫)や帝国主義イギリスと対決します。1879年にイギリスの侵略で始まったズールー戦争では、2千人のイギリス軍を2万人のズールー軍が全滅させるなど善戦もしますが、近代兵器の猛威の前に屈します。王都ウルンディを落とされたズールー王国は降伏せざるを得なくなりました。

 イギリスはズールー王国を保護国とし12の地域に分割します。ズールー王国最後の王セテワヨ・カムパンデは捕虜としてロンドンに送られますが、ボーア人ズールー族の残党を支援して治安を悪化させたため、イギリスはセテワヨ・カムパンデを傀儡の王として復位させます。しかしその領土はウルンディの周辺のみで以前ほどの影響力はなく反乱軍に追われて敗走、負傷しました。

 結局南部のエショウェまでたどり着くも、その傷が原因で死去しました。ただこれには異説があり、利用価値が無くなったイギリスによる毒殺、あるいはボーア人による暗殺説もあります。

 ズールー王国もまた、イギリス帝国主義の犠牲者だったのです。帝国主義時代の欧州は本当にろくなことをしていませんね。現在移民によって大混乱に陥っているのも因果応報、自業自得なのでしょう。