最大の政敵大久保忠隣を倒した本多正純。大御所家康の意向を嵩に幕政を壟断します。正純の父正信は苦労人でした。若いころ松平家を出奔し三河一向一揆に参加、家康(当時は松平元康)と敵対します。各地で一向一揆の将として迎えられ織田信長の軍勢とも戦ったと言われます。
その後帰参を許されると家康の側近として数々の建策をしました。三河譜代の家臣たちからしたら一度は主君に敵対した身、しかしながら今は重用され自分たちの上に立っているとなると憎まれるのは当然でした。正信もそのことは十分承知しており慎ましい生活を心がけ家康が高禄を与えようとしても固辞し生涯相模玉縄二万石に留まります。
ところが息子の正純は違いました。家康に重用されたのを鼻にかける才気走った性格で他の家臣から嫌われました。とは言え大御所家康の寵臣ですから表だって文句を言う者はいません。二代将軍秀忠も、正純の存在を苦々しく思いながらも家康存命中は何も言いませんでした。
そんな家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすと安心したのか1616年に亡くなります。享年73歳。いよいよ二代将軍秀忠の親政が始まりますが、秀忠側近グループの土井利勝、井上正就らが台頭してきました。幕府草創期の武断派と文治派の争いは文治派の勝利に終わりましたが、今度は文治派の内部で深刻な対立が生まれたのです。
土井利勝らは何とかして本多正純の失点を探そうと躍起になっていました。1622年、家康の七回忌で日光東照宮を参拝した秀忠は、その帰途宇都宮城に寄ろうとします。正純は将軍接待用に御成御殿を造営し来訪に備えていました。そこへ秀忠の姉で奥平忠昌の祖母加納御前から「宇都宮城の普請に不備有り。正純は謀反を企んでいるのではないか?」と密告があります。御殿に釣り天井を仕掛け秀忠を暗殺しようとしているとの訴えでした。
実は奥平忠昌は正純の前の宇都宮藩主でした。加納御前は住み慣れた宇都宮を追い出されたことを怨んでいたと言われます。慌てた秀忠は御台所(お江)が病気になったと称し予定を変更し宇都宮を素通りし壬生に一泊、そのまま江戸に帰還しました。この経緯、大久保忠隣の時とそっくりですよね。結局忠隣追い落としに使った策をそのまま自分も食らったわけです。
もともと正純を疎んでいた秀忠は、土井利勝らの讒言を容れ改易を決めました。この時正純を弁護する者は誰もいなかったそうです。1622年9月、出羽山形藩主最上家改易の見分使として山形城に乗り込みます。無事山形城を接収した正純でしたが、彼を追うように到着した幕府の糾問使に十一か条の罪状嫌疑を突き付けられます。
その中には宇都宮釣り天井のような明らかな濡れ衣もありましたが、抗弁しても無駄だと悟り従容として処分を受け入れました。これまでの正純の功績を考え出羽国由利で五万五千石の捨扶持を与えると内命がありましたが、正純はこれを固辞、さらにこれが秀忠の逆鱗に触れました。
正純は出羽国由利に流罪となり、のちに久保田藩佐竹家預かりとなり横手で幽閉されます。正純はこの地で1637年没しました。享年72歳。正純の子正勝も父に連座して出羽国に流罪となります。その後本多正純の子孫が大名に復帰することはありませんでした。ただ正純の弟で加賀前田家に付家老として入った政重(正信次男)の子孫は代々加賀藩筆頭家老として栄えたそうです。
それにしても、戦国の世を生き抜くのも難しいですが平和な世になっても権力闘争はすさまじいものがありますね。それを考えると本多正信の処世術は素晴らしかったのでしょう。父の思いを息子が受け継がなかったところに悲劇がありました。