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徳川幕府草創期の政争Ⅰ 大久保長安事件

 大久保長安と言えば、私が歴代大河ドラマ五本の指に入ると評価する大傑作『徳川家康』の津川雅彦の印象が強烈です。大久保長安(1545年~1613年)は徳川家康に仕えた金山奉行でした。

 大久保長安は猿楽師大蔵信安の次男として生まれます。父が甲斐武田家に猿楽師として仕えたことから甲斐に赴きました。長安はどこか見どころがあったのでしょう。武士として取り立てられ重臣土屋昌継の与力となりました。この時姓を土屋と改めます。

 武田家滅亡後は徳川家康に仕えますが、一説では家康逗留用の居館を長安が建設し、その作事の能力を家康に見いだされて仕官することになったとも言われます。今度は重臣大久保忠隣(ただちか)の与力を命ぜられ、この時大久保姓に改めました。

 長安は優秀な文官で家康が関東移封の際は検地や土地台帳の作成を担当します。長安が金銀山と関わりを持つようになったのは関ケ原後で、最初は石見銀山見分役となります。その後佐渡金山を支配する佐渡奉行、伊豆の金山を支配する伊豆奉行などを歴任しました。同時に家康の六男松平忠輝(越後高田城主50万石)の付家老に就任するなど家康の信頼は厚かったようです。

 当時は金銀山を支配する奉行の取り分が大きかったようで、長安は莫大な蓄財をします。各地の金銀山を管理していたためその財は計り知れないと言われました。ただ晩年は金銀山の採掘量が低下したことから家康の寵愛を失い代官職を次々と罷免されます。最後は中風を患い1613年死去しました。享年63歳。

 長安の死後、幕府は大久保家に不正蓄財を問います。しかし長安の子らがその調査を拒否したため幕府の怒りを買い、長安の子供や郎党など七人が切腹を命ぜられ大久保家は断絶しました。その後の調査で大久保家の屋敷から莫大な金銀が見つかったそうです。これが大久保長安事件ですが、実は幕府内の文治派と武断派の対立が背景にあったのでは?と言われます。

 というのも長安を庇護していた大久保忠隣は二代将軍秀忠の側近で武断派の筆頭でした。大久保一族は累代松平家に仕え忠隣の父忠世も第一次上田合戦で総大将を務めたほどでした。一方、家康の参謀として仕えた本多正信、正純親子は家康の信頼を背景に幕府内で重きをなし、文治派を率いていました。両派の暗闘の結果が大久保長安事件に繋がったと思われます。

 その証拠に長安事件の翌年1614年には大久保忠隣が失脚しています。次回は大久保忠隣失脚事件を描きます。