前記事で書いた『兵站』(福山隆著 扶桑社)で紹介されていたんですが、兵站を担う自動車(輸送トラック)は300マイル(約480㎞)を超えて補給することができないとされます。これはそれ以上になるとトラック自体の消費燃料が膨れ上がり補給効率が劇的に低下するためです。これを自動車の交通限界と言います。
ですから兵站線を維持する場合、300マイルごとに補給物資の大規模蓄積拠点を設けるべきだしその間には小規模な一時蓄積・修理拠点を設け輸送トラックの修理や損耗に備えなければなりません。実は交通限界という考え方は昔から存在し、自動車が普及する以前は馬車による交通限界が存在しました。これを馬車限界と呼びますが、120マイル(約190㎞)とされます。
面白いことに、ヨーロッパの主要都市は馬車限界の120マイル以内に存在していました。例を挙げるとフランス。首都パリをはじめリヨン、マルセイユ、ボルドー、レンヌはそれぞれ120マイル圏内に存在します。そしてフランスのリヨン、ドイツのミュンヘンの120マイル圏外にスイスが存在します。これも中立国スイスが長年存在できた理由の一つなのでしょう。しかも山国なので他国は非常に攻めにくかったと思います。
古代から中世にかけて軍隊の移動は徒歩が中心でした。騎兵も存在しましたが、大多数は歩兵で構成されていたため歩兵の移動速度に合わせる必要があったのです。すべて騎兵のモンゴル軍など遊牧民族の軍隊は1日の移動距離70㎞というのもありましたが、大体平均して20㎞くらいが1日移動距離の限界でした。
古代シナの軍隊では15㎞、これは短すぎの気もしますが、ローマ軍で1日25㎞、強行軍で30~35㎞、アレクサンドロス大王のマケドニア軍で25~26㎞、戦国時代の日本の軍勢は20㎞くらいでした。有名な秀吉の中国大返しは220㎞の行程を8日間で駆け抜けましたが、平均すると1日27.5㎞進んだそうです。とくに3日目は34㎞、4日目に至っては40㎞も進んでいます。
これは兵站の準備ができていなかったら実現していませんでした。秀吉軍は瀬戸内海の水運も支配し、重い甲冑や武具、兵糧などは海から船で運ばせ軽装で移動したと言われます。話を交通限界に戻すと、馬車限界は120マイルですが、数日行程ごとに補給拠点を設けるべきなのでしょう。
日本の場合は、信濃などの内陸を除いて、海路を利用した兵站線を構築できます。内陸戦が中心だった欧州の馬車限界は日本には存在しなかったと思います。兵站線を維持する場合鉄道の重要性が分かりますね。鉄道の出現でこれまで数万規模の戦闘が一気に数十万規模、中には数百万規模まで膨れ上がりました。各国は敵の兵站線を破壊するため陸上では鉄道を攻撃し、海上ではシーレーン遮断を目指しました。ウクライナ戦争でも鉄道の破壊が双方の目的の一つとなっています。
戦史でよく言われる攻勢終末点は海路の交通限界でもありました。大東亜戦争中のガダルカナルの戦いは、策源地のラバウルから1000㎞も離れていました。長大な航続力を誇る零式艦上戦闘機ですらガダルカナル上空での戦闘は15分が限界だったそうです。もともと補給能力で劣る日本軍ですが、これでは勝てるわけもありません。
米軍は日本軍の兵站を遮断するため航空攻撃、潜水艦による攻撃で輸送船団を狙いました。困り果てた日本軍は駆逐艦による高速輸送(ネズミ輸送)、はては潜水艦による補給を試みましたが、補給効率が悪すぎてすべて失敗に終わり現地の日本軍は補給が絶え飢餓に苦しんだのです。いくら二式大艇で米豪遮断できるからと言ってガダルカナルには準備なしに手を出すべきではありませんでした。結果論ではありますが。
古代においても中世においても、そして現代でも兵站がいかに重要か分かると思います。欧米では兵站部門に一番のエリートを集めるそうですが、日本の自衛隊はどうなっているのか興味がわきます。旧日本軍では花形である作戦部門にエリートを集めがちだったそうですが、戦後どう変わったのか気になりますね。