九頭竜川の合戦は、1506年越前の戦国大名朝倉氏と加賀一向一揆との間に行われた合戦です。この戦いに関しては以前記事に書いています。
という記事です。
朝倉軍2万は一向一揆20万の大軍の侵攻を防ぎ戦国大名としての権力を確立しました。朝倉方の当主は戦国大名初代孝景の孫三代貞景(1473年~1512年)です。この戦いで大活躍したのが初代孝景の八男教景(1477年~1555年)で後に出家して宗滴と名乗りました。宗滴は朝倉氏の大黒柱として主家を支え、数々の合戦にも大将として出陣します。宗滴の死が朝倉氏の滅亡を早めたとも言われます。
ところで、一向一揆側の兵力20万は明らかに誇張だと思います。朝倉方の2万というのもかなり怪しい数字です。朝倉氏の領国越前は太閤検地で49万石、後の寛永検地では68万石もの大国です。ところが地図を見ると九頭竜川は越前・加賀国境からかなり南で、すくなくとも坂井郡は一揆側が制圧していることになります。坂井郡は越前一豊かな郡で18万石(68万石のうち)もありました。
当時は戦国末期より石高は低いはずですから、越前全体を仮に50万石とすると3割くらいは動員できない計算になります。朝倉氏がこの時動員できたとして35万石程度。これだと1万人くらいでしょう。無理に無理を重ねても1万5千人くらいが実数だと思います。朝倉氏は越前国内にも旧守護家の斯波氏や守護代家の甲斐氏の残党という敵を抱えていたはずで、一向一揆勢に向けられる兵力は1万人もいれば御の字だったのかもしれません。
一方、一向一揆軍は加賀のみでなく越中や能登の一揆勢も加わっていたそうです。これら三国はざっと100万石。ただ越中、能登の一揆勢はそこまで多くなかったはずですから大半は加賀の一揆勢だったと思われます。それにしても20万人というのは誇張でしょう。通常100万石の兵力なら外征兵力は3万人です。能登と越中からは一部動員として50万石なら1万5千人しか集められません。それ以上集めると兵站が崩壊するからです。
一揆勢1万5千対朝倉軍1万なら、プロの武士である朝倉方が有利。誇張ではなく20万人が真実としたら一揆勢は戦わずして兵站で崩壊します。越前で現地調達しようとしても数が膨大すぎてとても賄えないからです。例えて言えば蝗の大群がその地域を食い尽くすようなイメージです。
戦争は数が多いほうが有利ですが、兵站の裏付けのない軍隊は大軍であればあるほど自壊していきます。九頭竜川の合戦時の一向一揆勢はまさにこの状態だったのでしょう。別に朝倉方の武勇を過小評価するつもりはありませんが、いくら大軍だとしても農民主体で烏合の衆、しかも兵站ですでに崩壊していたとしたら、朝倉方が勝利したのは当然の帰結だったのかもしれません。