



天正4年(1576年)、丹羽長秀を総普請奉行に任じ七年の歳月をかけて完成した城は、宣教師ルイス・フロイスの報告にもある通り絢爛豪華な城でした。しかし天正10年(1582年)信長が本能寺の変で倒れると、戦火によって天守が焼失、1585年には廃城になります。10年にも満たない歴史でした。
総石垣普請と、五層七重の天守を持つ初めての城で、以後築かれた城の手本となりました。天正3年の設楽が原の合戦で武田勝頼を破った信長にとって、当面最強の敵は越後の上杉謙信でした。謙信は北陸街道を通って上洛するだろうと目されていましたから、安土城はそれを阻止する位置にあります。
また京にも、かっての本拠であった美濃との連絡も容易な交通の要衝にありました。
ところで、信長がずっとこの安土に住み続けたかは疑問です。と言いますのも清洲、小牧山、稲葉山(岐阜)と本拠を、その時々の戦略の都合によって移してきたのですから、次も当然あると考えるのが自然です。
その地とは、ずばり大坂でした。かって10年にわたって抵抗してきた石山本願寺のあったこの地は、難攻不落であると同時に、瀬戸内海の交通、山陽道の要衝、淀川を通じての京との連絡、将来的な発展を約束された土地でした。
ここに目を付けた信長はさすがに慧眼です。実際、大坂は日本一の商都として栄えるようになります。いちはやく秀吉が大坂城を築いたのは、このことを知っていたからです。
本能寺の変がなければ、この時代は「大坂時代」と呼ばれていたかもしれませんね。