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織田信長軍団の強み

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 戦国時代、最強の兵といえば薩摩の島津、あるいは信玄の甲斐、謙信の越後が挙げられます。しかし、天下を平定しつつあった織田信長の根拠地尾張の兵は、畿内の兵と同様最弱と評されていました。
 経済の発展している都会の兵は、たしかに贅沢になれ、堪え性がなくちょっとしたことですぐ壊走しました。そんな最弱の兵を率いて信長は、諸国を併呑していったのですから驚きです。その秘密は銭でした。

 戦国時代、大名が動員する兵力は農民でした。ほとんどの合戦は農閑期に行われました。それ以外の時期にも合戦はあったのですが、被害は農業生産力に直結しました。武田氏や上杉氏とて例外ではありません。ところが織田の兵は銭で雇われた傭兵でした。そのため銭がある限り一年中戦をすることができるようになったのです。個々の戦では敗北しても、いくらでも補充することができます。そして一年中戦えるのですから、相手にとってはたまったものではありませんでした。
 銭があるから、装備も強化でき鉄砲足軽も他家とは桁違いの数を揃える事ができました。設楽が原の合戦時、織田軍は千挺とも三千挺とも言われる鉄砲の集中使用で戦いに勝利します。
 
 では、なぜ信長は莫大な銭を集める事ができたのでしょうか?それは尾張の先進性にありました。古くから開け豊かだった尾張は、流通経済が発展していました。大名は年貢だけに頼らず、台頭著しい商人に経済活動させ、流通過程で課税することで富を得ました。理屈上、商人が利益を上げればあげるほど、領主の税収も上がることとなります。信長の父、信秀の時代にはすでに織田家は莫大な富を築いていました。禁裏修理費に四千貫をポンと献上できるほどだったのです。

 信長は流通が富をもたらす事を知っていました。楽市楽座制、街道の整備、関所の撤廃はすべて流通を確保するためです。徳川幕府があいかわらず年貢に頼っていたことから考えると、その先進性は感心させられます。
 信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭から副将軍にするという褒美をことわって、堺、大津、草津の支配権を望んだのは富を独占するためです。おそらく義昭は、信長が遠慮していると取ったでしょうが、実際は交通の要衝であるこれらの土地を支配する事で、畿内の流通を押さえようとしていたのですから、信長の真意は恐るべしです。

 信長があれほど石山本願寺の土地に執着していたのも、石山(現大阪)の地が経済的に発展する商都となることをにらんで、自分の首都に定めようとしていたそうです。
 中世最大の天才、信長が本能寺で倒れなければ、近世日本は違った歴史を辿ったかもしれませんね。