鳳山雑記帳はてなブログ

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ピュロスの勝利

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 共和政ローマイタリア半島統一事業は順調に進んだわけではありません。その危機としてポエニ戦争におけるハンニバルの侵入、草創期のガリア人侵入のほかに、このエピロス(エペイロス)王ピュロスのイタリア半島上陸が挙げられます。戦争の名人と自他共に認めるピュロスによって、ローマ軍は何度も苦杯を舐めさせられました。

 では、なぜギリシャ西北部アドリア海に面したエピロスの軍がイタリア半島にきたのでしょうか?それはギリシャ人植民都市タレントゥム(現タラント)とローマの戦いが原因でした。
 ティベル河畔から起こったローマは発展著しくイタリア半島を統一すべく南下政策をとります。半島南部にはギリシャ人が植民した都市国家群が栄えていました。とくに地中海に面したタレントゥムは交易都市として繁栄していました。
 しかし、商業国家の常として軍備に力を注がなかったタレントゥムが、軍事大国ローマと戦端を開く状況になったとき、頼れるのは傭兵でした。タレントゥムは戦上手として名高かったエピロス王ピュロスに救援を要請します。

 これを受けてピュロスは二万の傭兵、三千のテッサリア騎兵、戦象26頭を引き連れてイタリア半島南部に上陸しました。
 南下してきたローマ軍とBC280年「ヘラクレア」の地で激突します。このときのピュロスの戦法はアレキサンドロス譲りの「ハンマーと金床」戦法(重装密集歩兵陣ファランクスが敵主力を拘束している間に側面・背後にまわった騎兵が打ち崩す戦法)か、ギリシャ世界従来のファランクスを決戦兵種とし騎兵を助攻とするオーソドックスな戦法か分かりません。私的にはギリシャ世界最強のテッサリア騎兵を率いているので前者をとりたいのですが。実際アレキサンドロスの母オリンピュアスはエピロス王家の出身だといわれていますので、関係なくもないです。
 一方、ローマ軍はファランクスよりはやや密集度の緩やかな陣形をとりました。通常三列で編成され第1列、第2列がピルムと呼ばれる投槍と短剣、第3列は古参兵で編成され短剣のみ。これがバックボーンになります。まず先鋒が投槍を投擲、敵が怯んだ隙に接近して白兵戦を挑む。前2列が崩れても3列目で支えるという戦法でした。これはレギオンと呼ばれる陣形でしたが、この時代はまだ未完成だったと思われます。

 この戦いに望んだピュロスは「ローマという蛮族はなかなか重厚な陣を敷くではないか?」と感心したそうです。戦いそのものはピュロスの圧倒的勝利に終わりました。戦象を生まれて初めて見たローマ兵がパニックにおちいるすきに、騎兵とファランクスを有機的に動かしたのが勝因です。
 翌BC279年、カルタゴと同盟したピュロスはローマ東南東260キロの地点にあるアスクルムで再びローマ軍を撃破します。しかし、戦いのたびに大きな損害をだしたピュロスは、ローマ元老院南イタリアからローマが手を引くことで講和しようと使者をだします。しかしローマの回答は拒否でした。
 攻めあぐねたピュロスは、ちょうどシチリア島ギリシャ人から救援要請を受けたためイタリア半島を離れます。しかしその地で圧政を敷いため、ギリシャ都市から疎まれ、再びイタリア半島に舞い戻りました。

 BC275年、三度目の正直でした。べネウェントムの戦いでピュロスは壊滅的な敗北を喫しました。さしもの精強なエピロス軍も連戦で疲れ、補充した兵の質も落ちていました。一方ローマは国家の危機ととらえ市民一丸となってピュロスに備えていました。ピュロスが半島を離れた貴重な時間を自軍の強化にあてていたのです。戦争を個人の趣味とするものと重要な国家事業ととらえるものの違いでした。

 失意のピュロスは本国に逃げ帰ります。ピュロスが去った事で兵力を失ったタレントゥムはまもなく降伏し、ローマのイタリア半島征服は成りました。
 自国に戻ったピュロスは、2年後スパルタとの戦いで戦死します。その後のエピロス王国ですが、紀元前2世紀ローマの侵攻を受けBC168年には占領されます。そしてローマ領マケドニアの一部として支配されました。

 後年ハンニバルは、ピュロスをアレキサンドロス大王に匹敵する戦術家と評しましたが、惜しむらくは政治力がなかったようです。『ピュロスの勝利』とは「損害が大きく、得るものが少ない勝利」の例えです。