

しかし、当時の状況を考えるととても大作戦を展開している余地はなかったのです。もともとビルマ侵攻は、援蒋ルートの遮断が目的でした。ビルマに駐屯していたスティルウェル中将の英・印・中連合軍をビルマ国内から駆逐し、一部はインド、一部は雲南省に逃亡しました。
連合軍はヒマラヤ越えの空輸ルートに頼っていましたが、おのずと限界があり、インドのレドから、北ビルマを通って雲南に到る、いわゆる「レド公路」構築の必要性が考慮されました。
まず雲南の国府軍にアメリカ式装備を与えて訓練する30個師団相当の「Y部隊」、同じくインド、ビハール州ラムガルーで逃げてきた中国兵をアメリカ式装備で再編成した「X部隊」これらが北ビルマに同時に侵攻して「レド公路」を打通するという作戦案です。
訓練が遅々として進まないY部隊に対して、インドのX部隊は2個師団、2個砲兵団(連隊)、1個工兵団(連隊)が編成され、兵力約7万、新編中国軍と名付けられました。
昭和18年(1943年)10月30日、X部隊の新編第1軍は、ビルマ国境地帯のニンビンを攻撃、以後8ヶ月にわたるフーコン谷地の戦いが始まりました。
本来の目的から言えば、インパール作戦は支作戦、北ビルマ防衛こそ本来の最重要課題でした。その戦いが続いていた最中にインパール作戦を発動するのですから、支離滅裂です。第15軍、そしてその上級組織であるビルマ方面軍は無能の極みでした。
フーコンを防衛するのは、第33軍隷下の菊兵団(第18師団、田中新一師団長)でした。広大な担当区域をわずか1個師団で防衛するのですから、困難な任務でした。しかも一部の部隊を雲南戦線に抽出していた状態ですから、悪条件は重なっていました。
連合軍は、交通の要衝ミートキーナにガラハット挺進部隊を投入、飛行場を占領します。菊兵団隷下歩兵第114連隊は分遣され龍兵団(第56師団)の歩兵団長(通常は3個連隊基幹)の水上源蔵少将の指揮下に入ってミートキーナ防衛戦を戦います。しかし圧倒的な物量を誇る連合軍に撃破され80日の激闘の末、残存将兵に包囲を脱出するよう命じた後、水上少将は自決しました。歩兵第114連隊も2000名以上の損害で壊滅的打撃を受けます。
一方本隊である菊兵団も、連合軍の重包囲下に置かれていました。制空権も敵に奪われ、補給の途絶えた将兵は栄養失調とマラリアで3000名を越える戦死者をだし、やっとのことで包囲を脱します。
昭和19年6月、ビルマ方面軍は北ビルマの放棄を決定しました。インパール作戦で、第15軍将兵が血みどろの戦いを行っている最中のことでした。
蒋介石は、再三のルーズベルトの要請を渋っていましたが、ついに重い腰を上げます。16個師団を投入して援蒋ルート再開のため、雲南遠征軍を派遣しました。雲南には龍兵団(第56師団)が進出し、拉孟(らもう)、騰越(とうえつ)の要地に陣地を築き防衛体制を敷いていました。
第33軍は、守備隊を救出し援蒋ルート遮断を確実にするため「断作戦」を発動します。勇兵団(第2師団)を、龍兵団と並列して攻撃を開始、一部の救出には成功しましたが、拉孟、騰越は15倍以上の敵の包囲を受け脱出不可能でした。絶望的な状況の中で日本兵は超人的な抵抗を示し、弾薬がなくなると石を投げてまでして、3000名以上いた守備隊全員が玉砕します。
この戦いがいかに凄まじかったか証明するものとして、敵である蒋介石が、その勇戦敢闘を賞賛して「ビルマの日本軍を規範とせよ」と全軍に訓示したほどでした。
ビルマに撤退して戦線を縮小した第33軍は、以後持久戦に移り、なんとか終戦まで持ちこたえました。太平洋戦争で、一般にはあまり知られていない北ビルマ、雲南の戦闘ですが、ここでも我々の祖父、あるいは曽祖父にあたる人たちが苦しい戦いを繰り広げていたという事実を、知っておかないといけないと思いご紹介いたしました。