

イスラエルの首都エルサレムの丘に高さ3m、厚さ1m、本を広げた形の黄金の碑が立っている。
ゴールデンブックと呼ばれている。(別名黄金の碑)
ユダヤ民族の幸福に力をかした人々の恩を永久に讃えるために、と世界各国のユダヤ人が金貨や
指輪などを送って鋳造したものである。
ユダヤ人は歴史上多くの迫害も受けたが一部の人から受けた大恩も忘れずにゴールデンブックに
記録している。
モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出した ユダヤの偉人達にまじって、
上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり その次に樋口の部下であった
安江仙江大佐の名が刻まれ ている。
樋口季一郎少将は6千人のユダヤ人を救ってイスラエル 政府から「諸国民の中の正義の人賞」
を授けられたた外交官・杉原千畝(ちうね)氏とともに、日本人とユダヤ人との浅からぬ縁を語る上 で、不可欠の人物である。
杉原千畝氏は第二次世界大戦勃発前のリトアニア国の日本領事でドイツのユダヤ人迫害から6000人 のユダヤ人を救うために日本の外務省の指示を悩みながらも無視し個人的良心に従い独断でビザを発行 した
人物。 戦後この責任を取らされて外務省をクビになる。
しかし、イスラエル政府や世界中のユダヤ人の復権運動で海外では評価され、日本でも最近氏の伝記
本が多数出版となり日本外務省も杉原氏の家族に謝罪し復権を果たした。
このとき杉原千畝氏は故人となられていたが、、、。
写真下 ゴールデンブック
しかし樋口季一郎はまだ多くの日本人には知られておらずいまだ復権を果たしていない。
樋口季一郎とはどのような人物なのか?
私は樋口を以下の3点で評価する。
.罐瀬篆唯暇鋻佑遼?での救済。
■隠坑苅廓キスカ島からの日本軍人5000人の撤退指揮。
昭和20年8月のソ連軍による北海道占領阻止。
まず,裡隠坑械廓ナチス政権が誕生してドイツはユダヤ人迫害国家となった頃の話。
1937年当時樋口陸軍軍人では満州国(当時の日本の傀儡国家)ハルピンの特務機関長
という立場であった。
樋口少将は、1937年8月着任早々、
「満州国は日本の属国ではないのだ。
だから満州国、および、満州国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、
満人 の庇護に極力努めるようにしてほしい。 悪徳な奴は日本人でも摘発せよ」
と訓示した。
翌1938年3月8日、ハルピン特務機関長樋口少将の もとに重大事件のニュースがもたらされた。
満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、ナチスのユダヤ人狩りからのがれてきた約二万人
のユダヤ難民が、吹雪の中で立往生している。
これらのユダヤ人は、満州国に助けを求めるために、シべリア鉄道を貨車でゆられてきたのである が満州国が入国を 拒否したため、難民は前へ進むこともできず、
そうかといって退くこともできない。
食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、凍死者が続出し、危険な状態にさらされていると。
これらのユダヤ難民は、フランクフルトからポーランドに流れ込んだのだが、すでに数百万の
ユダヤ人を抱えていた同国は、彼らを体よくソ連領に追いやってしまった。
ソ連は難民達をシベリアでもほとんど開発を放棄した酷寒の地 に入植させたのだが、
都市生活者ばかりの難民達に開拓ができる はずもなく、彼らは満州国を経由して、上海へ脱出
しようとして、オトポールまでたどりついた所であった。
樋口は満州鉄道総裁と話をつけソ連側国境オトポールに救援列車を入れ凍死者や重病人数十名
を除く約2万人 を満州国側に収容。
このとき日本側では食料の炊き出し衣料品医薬品の準備までしていたという。
樋口の決断が1日遅れるとさらに多くの凍死者が出ていただろう。
難民の8割はハルピン~大連、上海経由で海路で米国へ脱出することができた。
残り2割は満州国に開拓農民として殖民した 。
樋口のユダヤ人保護について早速ドイツから抗議が来る。
樋口は陸軍上層部から査問を受け窮地に陥るが自分の心情を
「ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追放したユダヤ民族を
進退両難におとしいれることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の
敵ともいうべき国策ではないか。
そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべき
ものであるとするならば、これまた、驚くべき 軽侮であり、人倫の道に
そむくものであるといわねばならないでしょう。
私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、
満州国もまた、日本の属国ではないと 信じている。」とのべた。
紆余曲折を経て樋口は「不問 」どころか栄転した。
この当時まだドイツにこびずに樋口を栄転させた日本という国は多少はバランス
がとれていたとも考えられる。
リトアニアで杉原が「命のビザ」を発行する2年前の出来事である。
△留錨掌紂)綿?鎧蔑甦瓜?紊離スカ島撤退作戦は米軍に包囲された孤島キスカから
海軍部隊が濃霧を利用してキスカ島に接岸、わずか一時間間で日本軍兵士5200人を収容
して米軍に捕捉されずに撤収に成功した作戦として有名。
この作戦を陸軍側から提唱したのが樋口であった。
この時の主役は実行部隊の海軍木村司令官であるが陸軍北方軍司令官の樋口も影の主役であった。
樋口は現場のキスカ島にはいなかったが暗号無線で島を撤退するとき少しでも早く救出にきた
海軍艦船に乗艦できるよう重火器はもちろんの事。
普段兵士に絶対手放すなと教育してきた「38式小銃を捨ててもかまわない」
と指示を出していた。
小銃があると重量も4キロ増えボートで沖の軍艦に縄梯子で5200人が乗り移るのだから
普通一時間では無理で あったろう。
また1時間以上かかるとパトロール中の米軍艦船に発見されていたかもしれない。
(作家三野正洋氏の著作の中で中国戦線において前線へ急ぐ日本軍部隊が増水した川を渡
るとき指揮官が小銃を無くさないよう兵士達に命令した結果、渡河後200名近くの
水死者を出した事件があったという。)
キスカ島から助け出された5200名の将兵は樋口と海軍の撤収部隊に感謝したことだろう。
続く