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世界史英雄列伝(9)フリードリヒ大王と軍国プロイセンの発展 前編

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◇フリードリヒ2世(大王)1712年~1786年(在位1740年~1786年)

1712年 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)の長子として生まれる。
1740年 即位。
1740年~1748年 オーストリア継承戦争シュレジェンを獲得。
1756年~1763年 7年戦争
1772年 第1回ポーランド分割で西プロイセンを獲得。
1786年 死去。

 フリードリヒ大王、名実ともにプロイセンを欧州列強に仲間入りさせた人物です。もともとプロイセンはドイツの北辺にある小国でした。プロイセンとはビィスワ川沿岸に住んでいた先住民プルーセン人に由来する名前だそうです。
 簡単に歴史をふりかえると、1226年ドイツ騎士団がこの地に入植して発展しました。ドイツ本土からは飛び地になりダンチヒ回廊によって隔てられています。中心はケーニヒスブルク。1410年ドイツ騎士団ポーランドリトアニア連合軍に破れポーランドの宗主権下に置かれました。
 1511年、ブランデンブルク辺境伯ホーエンツォレルン家が騎士団長に就任。1525年騎士団を解散させプロイセン公国を創始します。
 ブランデンブルク辺境伯神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶ選帝候になります。中心はベルリン。選帝候領はベルリン周辺のほかにドイツ各地に飛び地を持っていました。その最大の飛び地が東プロイセンでした。歴代の当主は飛び地を繋げることを最大の目標にしていました。1660年、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝候はプロイセン公国ポーランドの宗主権から開放、当時強国だったスウェーデンから北ドイツのポンメルンを奪回、強国への足がかりをつくります。
 1701年フリードリヒ3世は、神聖ローマ皇帝レオポルド1世の黙認によって東プロイセンにおいてのみ王号が許されました。スペイン継承戦争に8000の援軍を送るとの条件でしたが。こうして、フリードリヒ3世はプロイセン王フリードリヒ1世になりました。ただ、この王は贅沢を好み国費を浪費するのみで死にました。フランスのルイ14世に憧れていたとか。
 あとを継いだのは、それと正反対の性格のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世でした。兵隊王とあだ名されるほど軍備にのめりこみます。プロイセンは農業国で豊かではありません。費用をどこで捻出したかというと、それは極端な吝嗇でした。良く言えば質実剛健でしたが、着ている洋服まで切り詰め、浮いた費用を軍備につぎ込んだのです。統制のとれた秩序を好み、宮殿から見えるベルリンの町を、ちょうど兵隊が整列しているようにつくり、軍隊を閲兵しているようだと、一人悦に入っていたそうです。
 その長男が、有名なフリードリヒ2世、大王です。子供のころは読書が好きなおとなしい性格で、フランス文化に憧れ啓蒙思想家のヴォルテールとも文通していたそうです。そんな軟弱な王子が、父と合うはずがありません。一度は脱走を図り、幽閉されてしまいます。
 家庭的には、面白みのない堅物の国王でしたが、彼が死ぬときには4万の常備軍を8万にし、精強な軍隊を作り上げていました。
 フリードリヒ2世は、その父の遺産をもとに小国プロイセンを欧州列強に押し上げていくのです。