
それまで抱いていた成政のイメージが変わった方も多かったのではないでしょうか?しかし、その最後についてはドラマでは詳しく描きませんでした。私の郷土の歴史でもあるので、ここでご紹介します。
天正14年(1586年)豊臣秀吉は、30万の大軍を動員して九州の島津義久を討ちます。いわゆる九州征伐です。島津が降伏すると、薩摩・大隈以外の諸国は戦功のあった諸将に分割されます。その中で、佐々成政は肥後一国52万石を領地として与えられました。
しかし、肥後は難治の国といわれていました。独立心旺盛な土豪、いわゆる国衆と呼ばれる52名もの小名が存在していたのです。彼らは、所領こそ最大でも数万石規模でしたが、中世以来農民との結びつきが強く、一国支配を目指す成政にとっては厄介な存在でした。
うがった見方によれば、秀吉は統治困難な肥後の国を成政にまかせて、わざと国衆に一揆をおこさせ両者とも責任をとらせて成敗しようとしたとか。今まで反抗を繰り返してきた成政を秀吉は許していなかった、という意見です。
しかし、考えてみてください。秀吉が成政を殺そうと思えば、それまでいつだってできたはずです。それが肥後という大国を与えて、成政が逆に統治に成功していたらどうだったでしょう?越中よりも豊かな土地をわざわざ敵に与えた事になります。秀吉がそんな無駄な事をするはずがありません。やはり、成政の政治手腕に期待していたのではないでしょうか?
わざわざ秀吉は、成政にたいして「入国後3年間は決して検地をするな。」などの心得を言い渡していたほどです。
成政はこうして、肥後隈本(現熊本)城に入城します。しかし、入ってみて驚きました。国衆は秀吉によって所領を安堵されているので、成政が越中から連れて来た家来に与える所領がないのです。困り果てた成政は、国衆たちを呼んで検地を言い渡します。当然彼らは秀吉の安堵状を盾にとって反発します。なかでも最大の勢力を持つ隈府城主隈部親永は、席を蹴って本拠に戻り籠城の準備を始めました。
公然と反抗の態度を示された成政は、5千の兵を率いて隈府城を攻めます。天正15年(1587年)、肥後国衆一揆の始まりです。城はあっけなく落ちましたが、親永は息子親安の篭る山鹿郡城村城に逃げ込みます。比高はたいしたことないのですが、この城村城は周囲を深田に囲まれ難攻不落でした。速攻をあきらめた成政は、深田を挟んで東側にある日輪寺に本陣をおき、城村城を包囲します。
ところが、そのとき急報が入ります。留守の隈本城に一揆軍2万5千が攻め寄せ、落城の危機にあるというのです。急遽、軍をかえした成政は一揆勢を撃退しますが、たまらず秀吉に救援を頼みます。
これを受け、小早川隆景、黒田如水、立花宗茂らが救援の軍を派遣しました。天下の豊臣勢を受けては国衆もたまりません。各個撃破を受け残すは、隈部親永、親安父子の篭る城村城と、玉名郡東北にある田中城の和仁親実(わに ちかざね)だけになりました。
一揆の首謀者隈部親永は籠城に疲れ降伏、柳川で斬られますが、最後まで抵抗したのは田中城主和仁親実でした。籠城兵は領民も含め1千弱。これを2万の豊臣軍が囲みます。2ヶ月の籠城戦の末、内部の裏切りでやっと落とす事ができました。
ようやく国衆一揆は鎮圧されたのですが、成政は責任を取らされて所領没収、尼崎で切腹を命じられます。
戦後処理は過酷を極めました。52人の国衆のうちなんと48名が滅びました。なかには戦闘に参加せず中立を保っていた者も含まれていたのです。ことごとく斬られました。
中世以来勢力を保っていた国衆は一掃され、肥後は近世大名の支配する安定した沃土となったのです。成政の後を受けて肥後に封じられたのは、秀吉子飼いの加藤清正、小西行長の2人でした。半国づつ領しましたが、関ヶ原で行長は除封、清正が肥後一国を手に入れます。熊本城を築き、隈本を熊本に改称したのは清正でした。
いまでは清正と、その後を受けた細川氏の痕跡しか残っていませんが、その昔確かに佐々成政という男が肥後の地に存在していたのです。
ところで私鳳山は、国衆一揆の舞台、城村城と田中城の跡を訪れた事があります。城村城は大軍が篭れる大規模な平城という印象でしたが、それほどの要害とは思いませんでした。ところが田中城を訪れて驚きました。比高は60メートルほどもあるでしょうか。規模は小さいものの難攻不落の平山城というイメージでした。当時は深田で周りを囲まれ、一方だけが急峻な尾根続きで山地に繋がっています。これなら、ちょっとやそっとでは落ちないな、と思いました。
興味ある方は一度訪れてください。熊本県玉名郡三加和町(町村合併で名前がかわっているかも?)にあり、公園として良く整備されています。現地に訪れて、戦国時代の息吹に触れてみるのも一興ですよ。