鳳山雑記帳はてなブログ

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インパール作戦と宮崎繁三郎

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 太平洋戦争3大悲劇といえば、ガタルカナル島攻防戦、ニューギニア攻防戦と共に、インパール作戦があげられます。
 1944年3月に発動したこの作戦は、援蒋ルート遮断と、インド東北部を占領することによって英印軍の抗戦意欲をうしなわせビルマ(現ミャンマー)の防衛体制を磐石にする目的で始められました。
 攻勢の主力である第15軍牟田口廉也中将が強引に主張した作戦で、上部組織のビルマ方面軍、南方総軍、大本営も初めは補給に困難を伴うと難色を示していましたが、牟田口中将に押し切られる形で承認されました。信じられない話ですが、南方総軍の寺内寿一元帥が「牟田口がここまで言うのだから、認めてやってくれないか。」と大本営に圧力をかけたとか。
 インパール作戦(ウ号作戦)は、こうして開始されたのですが、初めに識者が指摘した通り(地図を見れば素人でも分かりますが)補給が途絶え参加将兵8万のうち7万の犠牲(ほとんどは餓死、病死)をはらって大敗し、ビルマを防衛するはずが、その兵力まで失い逆に英軍の侵攻も招く結果となりました。
 600メートルもの川幅をもつ、チンドウィン川を渡り、舗装道路もない数千メートル級のアラカン山系を越える作戦ルートはほとんど不可能と呼べるルートでした。しかもその後ろには制空権をもつ英印軍の大軍がまちうけているのです。
 参加兵力は、祭兵団(第15師団山内正文師団長・中将)、烈兵団(第31師団佐藤幸徳師団長・中将)、弓兵団(第33師団柳田元三師団長・中将)の3個師団基幹に若干の戦車連隊などの補助兵力がつきました。
 三師団長全員がこの作戦には反対でした。しかし軍命令には従わざるをえません。絶望的な作戦でしたが、奇跡的な将兵のがんばりでインパール盆地までなんとか到達する事ができたのです。
 日本軍の攻勢はここまで、包囲下のインパールに対し、英印軍は空中給輸で対抗します。日本軍に補給はありません。包囲するほうより、されるほうが肥え太っていく不思議な現象が起こりました。
 烈兵団の佐藤中将は、このとき撤退を決意、歴史上有名な「抗命」事件を起こします。実は佐藤中将は「補給を確約しなければ、作戦遂行は困難である。」と何度も具申していたのです。そのたびに、第15軍の牟田口司令官が「臆病風にふかれている。精神力でなんとかしろ。」と近代軍隊ではありえないような精神論をかざして握りつぶしていました。
 補給のつきた烈兵団は、独断で撤退を始めます。インパール北方の要地コヒマを押さえなんとか敵増援を抑えていた烈兵団でしたが、力尽きます。佐藤師団長は軍法会議で牟田口司令官と刺し違えるつもりで決断したそうです。しかし、軍法会議で自分たちの責任が追求される事をおそれた軍上層部は、抗命事件を起こした佐藤中将を心神耗弱という理由で予備役編入、軍病院に強制入院させます。まったく卑怯な連中です。
 残された祭兵団と弓兵団も、撤退せざるをえません。牟田口司令官は責任を現地指揮官にかぶせて二師団長も解任、作戦中に参加師団すべての師団長解任という異常な事態になりました。
 撤退は困難を極めました。道なき道を英印軍に追われての撤退です。補給もなく、日本兵は戦闘よりも餓死、病死で次々と倒れていきました。「白骨街道」と呼ばれるほどの悲惨さでした。

 そのなかで、唯一の救いといえるのは、宮崎繁三郎少将の活躍です。私、鳳山が旧日本陸軍でもっとも好きな人物です。温和な顔で風采のあがらない人物でしたが、部下思いで戦争の名人ともいえる名将でした。宮崎少将は烈兵団(第31師団)の歩兵団長(主力の3個歩兵連隊基幹)でした。宮崎支隊は烈兵団の先鋒としてコヒマ一番乗りを果たします。しかし、彼の真価は撤退戦に発揮されました。
 佐藤師団長から殿(しんがり)を頼まれたときも、嫌な顔一つせず引き受けます。消耗した部隊を二手に分け、片方が戦闘する間に、もう片方が陣地を構築し、交互に撤退していくという戦法で英印軍を20日間も釘付けにしました。もし宮崎支隊の活躍がなかったら日本軍は全滅していたでしょう。
 宮崎将軍のすばらしいところは、けっして部下を見捨てなかったことです。元気なものに、病気で歩けない者をかつがせ一人も置き去りにするなと命令しました。こんな宮崎将軍に部下も全力をあげて従いました。真の名将とは彼のことでしょう。
 敗北が決まると、真っ先に後方からさらに安全圏に逃亡した牟田口司令官とは大違いです。
 士(つわもの)兵団(第54師団)長として終戦をむかえた宮崎繁三郎は、部下と共に英軍の捕虜収容所にいれられます。しかし、ここでも毅然とした態度を崩さない宮崎を不審におもった英軍は、その素性をしらべます。そして、少数の兵で自分たちを食い止めた「コヒマの鬼将軍」が彼であると分かります。その後はジェネラルミヤザキと英軍にまで畏敬の念をいだかれるようになりました。
 牟田口司令官は、英印軍の司令官スリム中将の回顧録に「インパールの勝利は、まさに牟田口将軍のおかげであった。」と皮肉たっぷりに書かれるほどでした。
 戦後、宮崎繁三郎は故郷岐阜で雑貨屋の主人として余生をおくります。近所のひとも、この風采のあがらない老人が名将宮崎繁三郎中将であるとは分からなかったそうです。
 宮崎繁三郎の最後の言葉を紹介します。病床でうわごとのようにつぶやきました。
「参謀、分進攻撃ではぐれた部隊を間違いなく掌握したか?」
 最後まで、部下のことを思い続けた名将でした。